オロチは、毎年来る|古事記を紐解く③ 斐伊川と、神楽と、通勤路
毎朝、斐伊川を渡ります。
雲南市加茂町の、三代橋(みしろばし)。橋のたもとに水位観測所があって、川幅は広く、水はたいてい少ない。砂の川原のあいだを、水が細く分かれて流れている。
その川のことを、古事記はこう書いています。
年ごとに。つまり、毎年。
ヤマタノオロチは、一度きりの怪物ではなく、毎年やって来て、娘をひとりずつ食べていった。第1回で「オロチはどこから来たのか」を、第2回で「遺跡は嘘をつかない」を書きました。今回は、この「毎年」を考えます。


― この記事について ―
オロチの正体を、川の氾濫・火山の噴火・たたら(鉄)の三つの説で読み比べます。前回までと同じく、文献に書いてあること/事実/説とロマンを分けて書きます。どれかを正解にはしません。
第1回と第2回は、記事の最後にまとめてあります。
「年ごとに」と、書いてある
まず、文献です。
古事記の原文は「毎年来喫」。國學院大學の訓読では「年毎に来て喫へり」、現代語訳では「毎年やって来て喰らって行きました」。日本書紀のほうも、同じ場面で「毎年、八岐大蛇に呑まれた」と書いています。二つの書物が、そろって「毎年」と言っている。
オロチの姿も、細かく書いてあります。
目はホオズキのように赤い。ひとつの体に、頭が八つ、尾が八つ。体には苔と檜と杉が生えていて、長さは谷を八つ、峰を八つまたぐ。そして、腹はいつも血に爛れている。
スサノオがこれを斬ったあと、古事記にはもうひとつ、印象的な一行があります。
肥の河が、血に変わって流れた。肥の河は、いまの斐伊川です。國學院の注釈は、この一行が日本書紀には出てこないこと、そして「八俣大蛇はこの肥河の象徴であると見ることも出来る」と書いています。

ひとつ、意外なことも書いておきます。出雲の人が出雲のことを書いた『出雲国風土記』(733年)には、オロチ退治の話が出てきません。斐伊川のことは「出雲大川」として、西へ流れて神門水海に注ぐ、と書いてあるだけ。オロチは、都で編まれた古事記と日本書紀の中にいます。
文献に書いてあること
- 古事記も日本書紀も、オロチは「毎年」来た
- 頭が八つ、尾が八つ。長さは谷八つ、峰八つ。腹はいつも血に爛れている
- スサノオが斬ったあと、肥の河は血に変わって流れた(古事記だけの一行)
- 出雲国風土記に、オロチの話は出てこない
川は、地面より高いところを流れている
次に、事実です。
斐伊川は、出雲平野に入ると、まわりの土地より高いところを流れています。川床が、堤防の外の地面より3〜4m高い。「天井川」と呼ばれる川で、国土交通省は「全国的にも例を見ない」と書いています。

こう書いても、たぶん「いや、そんなわけないやろ」と言われます。川が地面より高いところを流れているなんて、ふつうは信じられない。
でも、毎日通っていると、わかります。
斐伊川沿いの土手の道を、地元では「上津土手(かみつどて)」と呼びます。上津は、いまの地図では出雲市上島町のあたり。昭和30年まで上津村だった地域です。村の名前は地図から消えたのに、土手の呼び名のほうは残っている。
その上津が、川底より下にあります。ジオパークの資料でも、天井川になっているのは上島町あたりから島村橋付近まで、約十数km。ちょうど、そこです。

家が、川より低い。堤防が切れると、水は家のほうへ落ちてくる。堤防は、水を囲っているというより、水を持ち上げている。
いまの斐伊川は、宍道湖へ流れ込んでいます。でも、これは江戸時代からの流れです。それまでの斐伊川は西へ流れて、神門水海(いまの出雲平野の西のあたり)に注いでいた。1635年(寛永12年)の洪水で川があふれて宍道湖へこぼれ、1639年(寛永16年)の洪水で堤防が切れて、完全に東へ流れを変えた。

川が、向きを変えた。それくらいの洪水が、あったということです。

そのあとも、江戸時代のあいだに30回をこえる洪水の記録があります。1893年(明治26年)の洪水は死者54人、松江の街が3m浸水。1972年(昭和47年)は死者12人、約2万5千戸が浸水しました。江戸の人たちは、40〜60年ごとに「川違え」といって、川を低い土地へ付け替えて、しのいでいた。
ただ、正直に書くと、「毎年」ではありません。大きな洪水は、数年から数十年に一度。でも、世代ごとに必ず来た。祖父が見た洪水を、孫も見る。それくらいの頻度です。
毎年、ではないのか。
古事記の時代(8世紀)の氾濫の記録は、残っていません。文書としての記録は、江戸時代から。それより前のことは、地形が覚えています。出雲平野は、何千年もかけて川が運んだ土砂でできた土地です。西側を埋めたのは主に神戸川、東の宍道湖側を埋めたのが斐伊川。川が暴れなければ、あの平野はない。
放水路のそばで暮らして
出雲に引っ越してからの家は、斐伊川放水路のすぐ近くでした。斐伊川の水を、隣の神戸川へ逃がすための、大きな水路です。2013年にできました。
斐伊川は、雨が降ると、わりとすぐに増水します。

通勤路に、その放水路沿いが入っていました。ふだんは何もない、コンクリートの広い道です。それが年に何回か、放水される。斐伊川から神戸川へ、かなりの量の水が流れていく。

放水の数日後、放水路の入口のあたりに、大量の砂が溜まっています。それを何日もかけて、何台もの重機で運び出す。最初は「なんかすごいな」くらいに思っていました。いまは、斐伊川の氾濫を防ぐためなら必要なことなんだろう、と思っています。

うちは少し上がったところにあるので無事ですが、そこから降りた道路は、毎年、大雨のたびに水で埋まります。妻が言うには、妻が子どものころには、家の近くの小さな川がしょっちゅう氾濫して、あたりが水浸しだったそうです。その川は、いま付け替えの工事をしています。
氾濫は、まだ身近です。

この橋の名前を、あとで知りました。古志橋(こしばし)といいます。
出雲市に、古志町という町があります。出雲国風土記の神門郡に「古志の郷」として出てくる場所です。名前の由来まで、書いてあります。
イザナミの時代に池を造ったとき、古志の国——いまの北陸、越(こし)の人たちがやって来て、堤を作った。そのまま住みついた。だから古志という。

第1回で書いた「高志のオロチ」の、高志です。越から来た人が、堤を作った場所。
その名前の橋が、いま、いちばん新しい治水のそばに架かっています。1300年のあいだ、ここではずっと同じことをやっているのかもしれません。水を、どこかへ逃がすこと。
事実
- 斐伊川は天井川。川床が地面より3〜4m高い(島根県)
- 1635年の洪水で宍道湖へこぼれ、1639年に完全に東流(出雲河川事務所)
- 江戸期の洪水は30回超。川違えは40〜60年ごと
- 公的な年表の「主な大洪水」は1635〜2006年で13件
- 古事記の時代の氾濫を書いた記録は残っていない
たたらが、川を変えた
なぜ、川床がそんなに高くなったのか。土砂の出どころは、上流のたたら製鉄です。
「鉄穴流し(かんなながし)」といって、山を崩して水に流し、重い砂鉄だけを取り出す。残った土砂は、川へ流れていく。斐伊川流域で流された土砂は、1.5〜2.2億立方メートルと見積もられています。東京ドームで177杯分。宍道湖の岸は、江戸時代以降に約5km前へ出ました。湖が埋まって、平野になった。

松江藩は1610年に、斐伊川上流の鉄穴流しを一度禁止しています。それでも鉄は必要だったので、秋の彼岸から春の彼岸まで、稲作の邪魔をしない半年だけ、という条件で続いた。鉄と米と川が、同じ水を取り合っていた。
ここから、ひとつの見立てが生まれます。オロチとは、たたらのことだったのではないか。腹が血に爛れていたのは、砂鉄で赤く濁った川。尾から出てきた剣は、この地の鉄。奥出雲では、そう語り継がれてきました。
では、鉄はいつからあったのか
順番を、整理します。
鉄の道具が使われはじめたのは弥生時代です。でも、その鉄は自分たちで作ったものではありませんでした。朝鮮半島から運ばれてきた素材です。砂鉄や鉄鉱石から自分で鉄を取り出す——ほんとうの意味での製鉄が始まったのは、6世紀の後半。古墳時代の終わりごろでした。
だから古事記の時代、出雲で鉄はたしかに作られていました。ただし、日本一の鉄どころだったわけではありません。古代の製鉄遺跡の多くは、隣の吉備(いまの岡山)に集まっています。出雲と石見が鉄の主産地になるのは、11世紀より後のことでした。
出雲国風土記に、鉄のことは何回出てくると思いますか。
三か所だけです。

飯石郡の川に「鐵あり」がふたつ。そして仁多郡の四つの郷について、こう書かれています。
ここから出る鉄は堅くて、いろんな道具を作るのにいちばんいい。出雲学の藤岡大拙さんは、こう書いています。「出雲は古代から鉄王国というイメージが強いですから、出雲国風土記にも鉄に関する記述がふんだんに出てくるとお思いでしょうが、実はとても少ないのです」
その仁多郡の横田郷に、鳥上(とりかみ)が入っています。スサノオが降り立ち、オロチを斬ったとされる、船通山の麓です。
鉄の記述が三か所しかない風土記の、その一か所が、オロチの現場でした。
三回だけか。思ってたんと、だいぶちがう。
ただし、時間が合いません。鉄穴流しが広まったのは1596年ごろから。古事記の900年あとです。古事記の時代に、川を埋めるほどの砂鉄採りはまだなかった。だからこの見立ては、学説というより、あとから土地の人が重ねた物語だと思います。
それでも、僕はこの見立てが好きです。斐伊川の源流は、船通山の山頂近くの湧き水です。三回登りました。冷たくて、鉄の味はまったくしない。その水が、下ってくるうちに砂鉄と出会って、鉄になって、川を変えていく。物語が、あとから川に追いついた。そういうことは、あると思います。

山ひとつ分の木を、使ったのか
たたらの話になると、必ず木の話が出てきます。鉄を作るのに山ひとつ分の木を使う、と。僕もそう聞いていました。
たたらの一回分を「一代(ひとよ)」といいます。三日三晩、火を落とさない。一代で使うのは、砂鉄がおよそ10トン、木炭がおよそ13トン。できる鉄のかたまりが約3トン。そこから日本刀になる玉鋼(たまはがね)は、およそ1トンです。

その木炭を森の面積に直すと、1ヘクタールから1.5ヘクタール。およそ100メートル四方です。年に60回から70回まわすので、一年で60ヘクタールほど。たしかに大きい。でも、一回で山ひとつ、ではありませんでした。

そして、切りっぱなしにはしていませんでした。
文化庁のページに、こう書いてあります。「永続的に炭焼きができるように約30年周期の輪伐を繰り返し、循環利用してきました」。木を切っても、切り株から芽が出る。萌芽更新(ほうがこうしん)といって、その力がいちばん強いのが30年生あたり。切って、待って、また切る。そのタイミングまで込みで、設計されていた。
「砂鉄八里に炭三里」という言葉があります。炭は重いから、遠くへ運べない。12キロ圏内の木を使い切ったら、たたらごと引っ越す。そして30年たって木が育ったら、また戻ってくる。和鋼博物館の館長さんは「1800ヘクタールあれば循環します」と計算してみせます。
もちろん、山が荒れなかったわけではありません。民俗学者の宮本常一は、中国地方の山が荒れた原因を五つ挙げていて、たたらはそのうちの一つです。森林学者の太田猛彦さんによれば、江戸時代から昭和のはじめまで、日本の山はむしろハゲ山だらけだった。いま僕たちが見ている緑の山は、400年ぶりの姿なのだそうです。
たたらだけが、山を裸にしたわけじゃない。あのころは、日本じゅうの山が、燃料と肥料のために裸でした。
ついでに書いておくと、『もののけ姫』のたたら場は中国山地がモデルだ、とよく言われます。島根県も雲南市も庄原市も、そう書いている。でもどれも「といわれています」で、根拠は示されていませんでした。スタジオジブリの公式サイトが挙げている参考地は、屋久島と白神山地のふたつだけです。
説とロマン
- オロチ=たたら。砂鉄で赤く濁った川と、鉄の剣(奥出雲で語り継がれた見立て。日本遺産のストーリーも「なぞらえ」と書く)
- ただし鉄穴流しは1596年ごろから。古事記の900年あと
噴火だったのか
第1回の記事で、三瓶山の噴火説を書きました。荻野さんに教えてもらった話です。赤い目、うねる体、火の色。石見神楽の大蛇を見ていると、たしかに噴火を感じます。
ここも、事実を書いておきます。三瓶山が最後にマグマを噴いたのは、約4000年前。記録に残る噴火はありません。古事記より、3000年以上前のことです。
物理学者の寺田寅彦は1933年に、オロチの話は「熔岩流の光景を連想させる」と書いています。ただし同じ文章で、神話の全部が自然現象の人格化だという意味ではない、とも念を押している。連想までは言えて、断定はしない。僕も、その距離感でいたいと思います。

噴火は古事記のずっと前。鉄穴流しはずっと後。氾濫は、そのあいだにずっと。時間の物差しをそろえると、どれか一つには決まらない。だから僕の直感は、こうです。
オロチは、長い年月をかけて作られた、自然災害そのものだったんじゃないか。川の氾濫と、噴火の恐ろしさと、たたら。その全部が混ざり合って、いまに伝わっている。
斬られたのに、また来る
もうひとつ、ずっと引っかかっていることがあります。
スサノオは、オロチを斬りました。物語のなかで、オロチは退治されています。それなのに斐伊川は、そのあとも何度も氾濫している。1635年も、1639年も、明治26年も、昭和47年も。
斬ったんちゃうんか。
斬られて止まったもの、でなければ話が合いません。川は、止まっていない。
止まったものが、ひとつだけあります。噴火です。さっき書いたとおり、三瓶山の最後のマグマ噴火は約4000年前。それきり、記録は途切れています。

だから僕は、こう思うようになりました。オロチという姿は、たぶん全部が混ざったもの。でも、スサノオが斬って終わらせたのは、噴火だったんじゃないか。
オロチの姿を思い浮かべると、よけいにそう読みたくなります。背中に苔と木が生えているのは、山そのもの。ひとつの体から頭と尾が八つに分かれているのは、谷を刻む川そのもの。赤くただれた腹は、溶岩。山であり、川であり、火である、一匹。

正直に書いておきます。これは僕が勝手にそう思っているだけです。調べたかぎり、同じことを言っている研究者も文献も、見つかりませんでした。寺田寅彦にいたっては、逆を読んでいます。「年ごとに来て喫うなる」を、噴火が繰り返すことの暗示だ、と。
それでも、書いておきたいと思いました。
三瓶は、二つの顔で出てくる
三瓶の噴火は、この平野そのものにも効いています。約4000年前の火砕流が出した大量の砂礫が、神戸川を通って下り、当時まだ海だった西側の入り江を急速に埋めた——という研究があります(島根大学・林正久 1991年)。火砕流そのものが平野まで流れ下ったわけではなくて、谷を埋めた土砂が川に洗い出されて、また積もった。
噴火は、姿が似ているだけじゃない。この土地を、実際につくっています。
そして、調べていてひとつ驚いたことがありました。
三瓶山は、出雲国風土記にちゃんと出てきます。オロチとしてではありません。国引きの、杭として。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、海の向こうの余った土地に綱をかけて、出雲へ引き寄せる。四回引いて、そのたびに綱をつなぎ留める。西側の杭が三瓶山(風土記では佐比売山)、東側の杭が大山(火神岳)。綱にあたるのが、薗の長浜と、夜見島——いまの弓ヶ浜です。

そして四回目に引いてきたのが、高志(こし)の国。第1回で書いた「高志のオロチ」の、高志です。
火山は、神話にいなかったわけじゃない。別の顔で、すでにいたんです。
説とロマン
- オロチ=川の氾濫(もっとも広く語られる説。国土交通省も「説もあります」と書く)
- オロチ=噴火の光景(寺田寅彦1933年の「連想」。ただし寺田は断定していない)
- 八つの頭=八つの支流(斐伊川の支流は70以上。「八」は多数の意、という読み)
- 出雲を征服した側から見た、出雲の象徴(歴史学の読み)
- スサノオが収めたのは一度きりの噴火では(僕の読み。同じことを書いた研究者は見つからなかった)
毎年来るのは、神楽だった
ここまで書いてきて、気づいたことがあります。
川の氾濫も、噴火も、たたらも、「毎年」ではない。事実として、いまも毎年オロチが来ている場所が、ひとつだけあります。神楽の舞台です。
妻の母の実家は、奥出雲の、木次線の出雲八代駅のすぐ近くです。夏祭りの夜、屋外の舞台に、オロチが出てきました。

別の会場——塩谷神社で見た石見神楽は、もっと派手でした。オロチは八匹、ちゃんといて、みんな色が違う。口から煙を吐き、火が出て、うねる。子どもたちは固まっていました。


石見神楽の「大蛇」は、秋の例祭で毎年舞われます。松江の佐太神社の「佐陀神能」では、九月二十四日と二十五日の御座替祭で、毎年「八重垣」——オロチ退治の演目が奉納されます。約400年、続いています。
この記事を公開する日の、翌日です。今年も、斬られます。

物語は、残すために生まれる。第1回でそう書きました。忘れたころに川はあふれる。だから毎年、舞台にオロチを呼んで、斬ってみせる。「今年も来た。今年も斬った」。それを繰り返すことで、災害の記憶が、世代を越えて渡されていく。
「年ごとに来て、娘を食べた」の「毎年」は、川の暦ではなく、人の暦だったのかもしれません。

オロチは、毎年来る
明日の朝も、斐伊川を渡ります。

川床は地面より高く、水は砂のあいだを細く流れていて、放水路のコンクリートは乾いている。何も起きていない朝です。何も起きていない朝が、何十年も積み重なったところに、あの物語が置かれている。
次回は、出雲大社。国譲りの話へ進みます。
今日の一曲
美空ひばりで、「川の流れのように」。1989年、最後のシングルになった曲です。
川の流れに身をまかせて生きていきたい、という歌です。でも、この記事でずっと書いてきた川は、身をまかせられるような川ではありませんでした。地面より高いところを流れて、堤防を切って、向きまで変えた。江戸のあいだだけで三十回をこえてあふれて、いまも大雨のたびに、家の下の道は水に沈みます。
それでも、その暴れた川が運んだ土砂の上に、あの平野があります。米ができて、人が住んで、神楽が生まれた。
長い年月を、まとめて「川の流れのように」と呼べるのは、あふれた年も、枯れた年も、全部入れて振り返ったときだけなんじゃないか。この記事を書きながら、そう思いました。
美空ひばりの公式チャンネルに、ミュージックビデオがあります。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。














