オロチは、何度でも生まれ変わる|歴博の特別展「その後のヲロチとスサノヲ」と、銅剣358本の部屋
こんばんは、ひろしです。
今日は、歴博の話です。
正式には、島根県立古代出雲歴史博物館。
出雲大社の、すぐ東どなりにあります。地元では、歴博(れきはく)。
天井の耐震(たいしん)工事で、1年半休んでいました。
10月1日に、リニューアルして再開。
10月12日、出雲駅伝の日に、行ってきました。
― ざっくり言うと ―
オロチは、古事記で斬られて終わりじゃなかった。時代ごとに姿を変えて、何度でも出てくる。
いちばん驚いたのは、須佐神社に伝わる「ヤマタノオロチの骨」。
そして常設展の銅剣358本は、何度見ても圧巻。出雲大社に寄ったら、ついでにぜひ。
― この記事について ―
特別展の会場は、写真が撮れません。だから特別展のところは、僕の言葉で書きます。常設展は、撮らせてもらった写真と一緒に。
いつもどおり、展示にあったこと/資料で確かめたこと/僕の見立ては、分けて書きます。途中の「寄り道」は、たたんであります。
駅伝は、今年からスタートが朝の9時10分に早まりました。
去年までは、昼の1時5分でした。暑さ対策だそうです。
12時10分に、入りました。
駐車場は、思っていたより、ずっと車が多い。
県外ナンバーが多くて、ここに停めて、そのまま出雲大社へ歩いていく人も多いようでした。
思ってたより、全然多いやん。
館内は、混み合ってはいないけれど、リニューアル直後で、人は多め。
出て来たのは、13時50分。1時間40分、満喫しました。
じつは、前の週の歴博まつりにも、子どもと来ています。毎年行っている、お祭りです。
そのとき常設展は半分ほど見ていたので、今回は残りと特別展。全部をゆっくり見るなら、2時間以上はかかると思います。


特別展「その後のヲロチとスサノヲ」
題に、「その後の」とあります。
古事記のヲロチ退治の、そのあと。物語はどうなったか、という展示です。
会場は撮影ができないので、ここは僕の言葉で。
展示は、こんな流れでした。
展示の流れ(公式の章立てを、僕の言葉で)
- プロローグ:スサノヲは、荒ぶる神か、英雄の神か。時代や場面で、評価が分かれる
- Ⅰ ヲロチの起源:縄文の土器に、蛇の飾り。蛇は、古代の人にとって何だったか
- Ⅱ 退治神話の広がり:日本書紀などの物語に、あとの時代の人が、いろいろな解釈を足していった
- Ⅲ その後のヲロチ:退治されたはずのヲロチが、生まれ変わる。壇ノ浦(だんのうら)で剣が沈んだ事件のあとに生まれた、新しい物語
- Ⅳ 出雲のスサノヲとヲロチ:出雲だけの神話が育ち、神楽にもなった
- Ⅴ 救いの神スサノヲ:疫病を払う神・牛頭天王と重ねられ、人びとは救いを求めた
ひとつ、びっくりしたことがあります。
ヤマタノオロチ退治の話は、出雲国風土記には出てこない。
えっ、出雲を代表する物語やのに。
書いてあるのは、古事記と日本書紀です。
733年の出雲国風土記は、出雲の国が朝廷に出した、土地の報告書。地名の由来が中心で、スサノヲは出てくるけれど、大蛇を斬った話は、ひとつもない。
歩きながら、思いました。
ヲロチは、一度斬られて、終わっていない。
時代が変わるたびに、その時代の怖いものの姿を借りて、何度でも出てくる。

壇ノ浦に沈んだ剣と、大蛇
1185年、壇ノ浦。
数えで8歳(いまの数え方で6歳)の安徳天皇(あんとくてんのう)が、三種の神器(さんしゅのじんぎ)とともに海に沈みました。鏡と玉は見つかったけれど、剣だけが、見つからなかった。
これは物語ではなく、京の公家の日記や、鎌倉幕府の記録にも残っている出来事です。
寄り道|なぜ、幼い天皇が、神器と一緒に海へ?
三種の神器は、天皇のそばを離れません。天皇が動けば、神器も一緒に動きます。
そして神器は、「この人が本物の天皇だ」というしるしでした。
1183年、木曾義仲(きそよしなか)が都に攻め上ってきたとき、平家は、清盛の孫にあたる幼い安徳天皇と、三種の神器を連れて、西へ逃げます。都落ち(みやこおち)です。
都では、後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、神器のないまま後鳥羽天皇(ごとばてんのう)を立てました。天皇が二人いる、2年間の始まりです。
そして1185年、壇ノ浦。負けが決まったとき、清盛の妻で、天皇のおばあさんにあたる二位尼(にいのあま)が、天皇を抱いて海に入りました。
捕まれば、天皇も神器も、源氏の側に渡る。源頼朝(みなもとのよりとも)は弟の源範頼(みなもとののりより)に、天皇と神器を無事に取り戻せるよう、よく考えて戦えと書き送っていました(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)。
『平家物語』では、二位尼は幼い天皇に「波の下にも都がございます」と言い聞かせます。
決めたのは、8歳の子ではありません。天皇を、本物のしるしごと、相手に渡さないため。そう読まれています。
その剣は、スサノヲがヲロチの尾から取り出した、あの剣だとされています。
『平家物語』には「剣巻(つるぎのまき)」という、剣の由来を語る巻があって、そこでヲロチ退治の話が語られる。
『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』では、海女が海の底で竜宮の城を見つけます。そこで大蛇が、口に剣をくわえ、安徳天皇を抱いていた。「剣は、地上に返すことはできない」と。

尾から出てきた剣が、大蛇のところへ帰っていった。
当時の人は、そう語ったわけです。
寄り道|その剣は、いま、どこにあるのか
スサノヲは、高天原(たかまがはら)で姉の天照大御神(あまてらすおおみかみ)ともめて、追い出された神です。
その姉に、ヲロチの尾から出た剣を「めずらしい物だから」と献上した。古事記は、そう書いています。
その後、天照大御神の孫のニニギが地上に降りるとき、鏡と勾玉と、この剣を持たされます。
これが、天皇家に伝わる「三種の神器」——八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の始まりです。
剣ははじめ宮中にあって、崇神天皇(すじんてんのう)のころに写しを作り、本体は外へ。伊勢に移されます。
そこからヤマトタケルが東へ持って行き、野火に囲まれたとき、草を薙いで助かった。それで「草薙剣」。
尾張に置いたまま亡くなって、その場所が、いまの熱田神宮です(『日本書紀』など)。
668年には、新羅(しらぎ)の僧に盗まれて、取り戻され、しばらく宮中に。
686年、天武天皇(てんむてんのう)の病が「剣のたたり」と占われて、熱田へ返されました。
壇ノ浦で沈んだのは、宮中に残っていたほうの、写しです。
鏡と勾玉は戻ったけれど、剣は戻らず、のちに別の剣が写しとして立てられました。

いまは——鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮、勾玉は皇居。
鏡と剣は、写しが皇居にあります。
そして、ここが不思議なところ。
三つとも、誰も見ることができません。
2019年の代替わりの儀式でも、剣と勾玉は箱に入ったまま、台に置かれ、運ばれました。箱は、開けません。
天皇ご自身でさえ、実物を見ることはない、と言われています。
熱田の本体も、御神体(ごしんたい)なので非公開。
明治のはじめ、勅使(ちょくし)が調べようとして、最後の箱を開ける直前に「やめよ」と伝令が来た、という話まで伝わっています。
神器は、ありがたいだけのものではありません。
崇神天皇は、御殿の中で祀っていた鏡の神の力を畏れて、一緒に住むのが落ち着かず、外へ移しました(『日本書紀』)。天武天皇の病は、剣のたたりと占われました。
日本の神さまには、恵みをくれる穏やかな顔(和魂・にぎみたま)と、荒れて祟る顔(荒魂・あらみたま)があります。
伊勢神宮には、天照大御神の荒魂だけを祀るお宮(荒祭宮・あらまつりのみや)が、別にあるくらいです。
だから、おそれて、うやまう。
宮中で鏡の写しを祀る場所は「賢所(かしこどころ)」。「畏(かしこ)き所」、おそれ多い場所、という意味だと言われています。
江戸時代に、神官たちがこっそり箱を開けて見た、という記録だけはある。
その話は、常設展の銅剣のところで、もう一度。
酒呑童子(しゅてんどうじ)は、ヲロチの子
中世の絵巻や御伽草子(おとぎぞうし)では、鬼の酒呑童子は、伊吹山(いぶきやま)の神の子として語られます。
その伊吹山の神は、スサノヲに斬られたヲロチの魂だとされた。
退治されたヲロチは、終わっていない。
別の怖いものの、親として、また出てくる。
寄り道|酒呑童子は、どんな鬼だったのか
酒呑童子は、京の都の北西、丹波(たんば)の大江山(おおえやま)にすむ鬼の頭です。
都の姫たちをさらい、館で人を食う。平安時代の武将・源頼光(みなもとのよりみつ)と、渡辺綱(わたなべのつな)・坂田金時(さかたのきんとき)ら四人の家来が、退治に向かいます。
一行は山伏(やまぶし)に化けて館に入り込み、道中で出会った三人の老人——じつは神様——からもらった毒の酒「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を飲ませて眠らせ、首を切る。
切られた首は宙を飛んで、頼光の兜にかみついたと語られます。首は都に入れてもらえず、老ノ坂(おいのさか)に埋められた。いまも「首塚大明神(くびづかだいみょうじん)」として祀られています。
この鬼が死にぎわに言った言葉が、御伽草子(渋川版(しぶかわばん))に残っています。
「情けなしとよ客僧(きゃくそう)たち。いつわりなしと聞きつるに、鬼神に横道(おうどう)なきものを」
——ひどいじゃないか、お坊さんたち。嘘はつかないと聞いていたのに。鬼は、だまし討ちのような曲がったことはしないのに。
だました側が人間で、だまされた側が鬼。読んでいると、どちらが鬼なのか、分からなくなります。
ヲロチの子だという生まれの話は、あとから足されました。
いちばん古い絵巻『大江山絵詞(おおえやまえことば)』(南北朝時代)に、ヲロチは出てきません。室町時代の絵巻(狩野元信(かのうもとのぶ)『酒伝童子絵巻』1522年)で住まいが伊吹山に移り、御伽草子や江戸時代の絵巻では、「伊吹山の神と、近江(おうみ)の長者の娘のあいだに生まれた子」という生い立ちまで描かれます。
その伊吹山の神が、スサノヲに斬られたヲロチの魂だった、というわけです。
子どもは三つのころから酒を飲んで暴れ、比叡山(ひえいざん)に預けられても追い出され、家族にも見放されて、山にこもって鬼になった。
伊吹山には、もう一つ、剣の話がつながります。
ヤマトタケルが草薙剣を置いて登り、山の神にやられて死んだ山。『日本書紀』では、その神は大蛇の姿で出てきます。
斬られたヲロチが山の神になり、剣を置いてきた英雄を倒し、やがて鬼の父になる。
中世の人は、そうやって古事記の続きを語っていたんですね。
疫病を払う神へ
一方のスサノヲは、牛頭天王(ごずてんのう)という、疫病の神と重ねられて信仰されました。
京都の祇園社(ぎおんしゃ)——いまの八坂神社の神です。明治の神仏分離(しんぶつぶんり)で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)として祀られるようになりました。
退治する側も、される側も、時代に合わせて役が変わる。
怖い病が流行れば、それを払う神になる。
何回、生まれ変わるんや。
いちばん驚いたもの
特別展で、僕がいちばん驚いたのは、「ヤマタノオロチの骨」です。
出雲市佐田町の、須佐神社(すさじんじゃ)に伝わってきたものです。
スサノヲを祀る神社。ふだんは宝物庫にあって、門外不出。今回、特別に展示されているけれど、これから先、ほかへ出す予定はない、と添えられていました。
えっ、骨、あるん。
めちゃくちゃ、興奮しました。
須佐神社は、出雲国風土記にも出てくる場所です。
風土記の須佐郷(すさのさと)には、スサノヲが「自分の名前は木や石にはつけない。この土地につける」と言って、須佐の名になった、と書いてあります。
風土記は、オロチ退治を書かなかった。
でも、その須佐の神社に、オロチの骨が伝わっている。
何の骨かは、僕にはわかりません。
図録の見出しも、「伝 オロチの骨」。
伝は、言い伝えの伝です。神社も博物館も、「そう伝わっている」という形で、大事にしている。

骨があるということは、誰かが、ほんとうにいたと信じていた、ということ。
物語の中の生きものが、骨になって残っている。
本物かどうか、という話ではありません。
そう信じて、大事に守ってきた人たちがいた。そのこと自体が、ヲロチの「その後」なんだと思いました。
僕の見立て:古事記は、ある時代のストーリーを保存した
この特別展で、思ったことがあります。
物語は、古事記にまとめられるより前から、きっと変わり続けていた。
川の氾濫。火山の噴火。もしかしたら地震や地滑り。
それから、製鉄。
その時代ごとの、怖いものや大きな出来事を取り込みながら、少しずつ姿を変えてきた。
そして712年、古事記が作られるタイミングで、その時代のストーリーとして、保存された。
そのあとも、時代ごとに変化して、利用されて。
ヤマタノオロチは、いまもなお、人の心の中で、暮らしの中で、この出雲の土地として、生き続けている。

正解は、ひとつじゃない。
このシリーズで三つの説を読み比べてきたのも、そういうことでした。
もうひとつ。
やっぱり、日本の神さまは、自然そのものなんじゃないか。この特別展を見て、その思いが、また確信に近づきました。
日本の神さまは、善い神と悪い神に、分かれていません。
同じ神に、恵みをくれる顔と、荒れて祟る顔がある。川は田んぼを流すけれど、あの平野を作ったのも、同じ川です。
善か悪かは、見る角度や、立っている場所で変わる。
ヲロチも、スサノヲも、そうやって時代ごとに、役を変えてきました。
常設展:何度見ても、圧巻
特別展のあとは、常設展へ。
常設展は、写真を撮らせてもらえます。
入ってすぐの中央ロビーに、宇豆柱(うづばしら)。
出雲大社の境内から2000年に出てきた、三本束ねの柱の実物です。


出雲大社の話は、次の記事で、ゆっくり書きます。
銅剣358本の部屋
そして、あの部屋です。

やっぱり、何度見ても、圧巻。
出雲大社に寄ったら、ぜひ、ついでに見ていってほしい。感動します。

今回は、取材のつもりで行ったので、どう埋められていたかを、よく見てきました。
お墓ではありません。誰かが、並べて、埋めた。

ほんとうに、まとまって埋まっていたんですね。
斜面を削った段に、刃を起こして、四列に。
発掘、ほんまに楽しかっただろうなぁ。
寄り道|ヲロチから出た剣は、鉄? 銅?
銅剣の部屋で、ふと思いました。
ヲロチの尾から出た剣は、鉄だったのか、銅だったのか。
古事記は、書いていません。
「都牟刈(つむがり)の大刀」——よく切れる太刀、とあるだけ。
手がかりは、いくつかあります。
鉄と読む手がかり
- 尾を切ったとき、スサノヲの剣の刃が欠けた。中の剣のほうが硬かった、という書き方。製鉄説の人は、ここを「青銅より硬い鉄」と読む
- 古事記が書かれた712年、剣といえば、もう鉄。鉄の剣が広まるのは古墳時代、鉄を国内で作るのは6世紀後半からだけれど、書いた人の頭の中の剣は、鉄だったはず
- 荒神谷の銅剣は、それより800年ほど前の、弥生時代のもの
銅と読む手がかり
- 熱田神宮の本体は、誰も見られない。ただ江戸時代の記録に、神官たちがこっそり箱を開けて見た、という話がある。長さは85センチほど、刃先は菖蒲(しょうぶ)の葉の形、色は全体に白っぽく、錆びていなかった——と
- 赤く錆びる鉄ではなく、銅の剣ではないか。そう読む研究者もいる。ただし、見た人からの伝聞です
- 見た神官たちは、流罪(るざい)になったり、病で亡くなったり。ひとりだけ助かった人が、書き残したと伝わる

答えは、「どちらとも言い切れない」。
鉄と読む人が多いけれど、銅剣説もある。
面白いのは、どちらでも話がつながるところです。
鉄なら、ヲロチの正体は砂鉄と、製鉄の人たち。
銅なら、目の前の、この358本。
前の記事にも書きました。遺跡は、嘘をつかない。
銅鐸(どうたく)は、入れ子で

加茂岩倉遺跡の銅鐸は、39個。
大きい銅鐸の中に、小さい銅鐸を入れて——入れ子にして、埋めてあった。




光の地図を見ると、出雲のあたりだけ、赤く密集している。
「神話の国」が、土の中から出てきた物で、実在の国に変わった場所です。
国引きの映像と、綱の正体
常設展には、国引き神話の短い映像があります。2分ほど。
水族館のゴビウスにあったような、模型に光で見せる作りです。
国引きの話は、古事記にも日本書紀にもありません。
出雲国風土記にだけ、出てくる。
神が、海の向こうの余った土地に綱をかけて、「国来い、国来い」と引き寄せた。
引いた綱は、いまの砂浜になった。杭は、三瓶山(さんべさん)と大山(だいせん)。

前に、西浜いもの記事で書きました。
薗の長浜(そののながはま)という綱は、神戸川(かんどがわ)と昔の斐伊川が運んだ砂が、あとからつないだ道だった。
今回、もう一本の綱を調べました。
大山に杭を立てて引いた綱——夜見島(よみのしま)。いまの、鳥取の弓ヶ浜(ゆみがはま)です。
弓ヶ浜について、確かめたこと
- 弓ヶ浜は、日野川(ひのがわ)が運んだ砂でできた、日本でもいちばん大きいくらいの砂州。もともと、なかった土地
- 砂の帯は三列。内側から、弥生時代ごろ、風土記の奈良時代までに、そして室町時代より後の順にできた
- 風土記の時代は「夜見嶋(よみのしま)」と呼ばれ、まだ島だったようだ
- いちばん外側の帯を大きく伸ばしたのは、日野川の上流で行われた、たたら製鉄の砂鉄採りの土砂(鉄穴流し(かんなながし))だとされる
つまり、綱は二本とも、あとから砂でできた道でした。
そして、弓ヶ浜を太らせたのは、たたらの砂。
オロチと製鉄の話とも、ここでつながってしまう。
寄り道|弓ヶ浜は、いつ陸続きになったのか
資料によって、幅があります。
風土記の時代(8世紀)には島。内側と真ん中の砂の帯はできていて、外側の帯が室町時代より後に伸びて、いまの半島の形になった。江戸時代ごろ、とする説明もあります。
鳥取県の試算では、1689年から1920年までの231年間に、約2億5千万立方メートルの土砂が、日野川から海へ出たそうです。
陸続きになった年を、ひとつに決めている資料は見つかりませんでした。だから、この記事でも決めません。
国を引っ張ってきたんじゃない。
砂がたまって、それまで行けなかったところへ、歩いて行けるようになった。
逆から見たら、引っ張ってきた、とも言えるやん。
そういう話なのかなぁ、と、僕は思っています。
風土記の時代の人が、この景色を見て国引きの話を生んだ、と考える研究者もいます。
展示ガイドアプリが、良かった
せっかくなので、展示ガイドアプリを使ってみました。
入口のQRコードから入れて、無料。館内のWi-Fiにつないで、イヤホンで聞きます。
詳しく、音声で解説してくれる。
しかも、館の外からでも、家に帰ってからでも使える。
だから、あとで気になったところを、復習できる。
この記事を書きながらも、聞き直しました。
スマホがなくても、専用のガイド機を無料で貸してくれます。

歴博の歩き方

特別展は、11月29日まで。
会期中の日曜日には、14時から学芸員さんの解説があります。各回20人で、申し込みが要ります。
時間は、特別展と常設展をぜんぶ見るなら、2時間以上を見ておくと安心です。
図録は、2,200円。
僕は、買いました。
駐車場は、歴博のものがあります。
週末は、出雲大社の参拝の車も入ってくるようなので、早めの時間がよさそうです。
今日の一曲
ドレスコーズで、「循環進行/逆循環進行」。
2019年、手塚治虫の『火の鳥』をテーマに10組が曲を書いたアルバム『NEW GENE, inspired from Phoenix』に入っている曲です。
循環進行というのは、音楽の言葉です。
いくつかのコードを順番に回して、最後にまた最初へ戻ってくる進み方。逆循環は、同じ輪を、別の場所から回り始めたもの。戻ってくるのは同じなのに、聞こえ方が変わる。
この曲は、ほとんどずっと、この輪を回っています。
寄り道|この曲のコードを、たどってみた
公式のコード譜は見つからなかったので、コードを画面に出しながら弾いている方の動画を、最初から最後まで、止めながら読みました。
原曲も、ヤマハのアプリ「Chord Tracker」で調べてみました。キーはどちらもC、出てきたのも同じ輪でした。
Aメロは、Dm7 → G7 → CM7 → A7 を、ほとんどずっと回っています。数字で言うと、Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ→Ⅵ。これが逆循環です。
この4つは輪になっているので、CM7から数え直すと、Ⅰ→Ⅵ→Ⅱ→Ⅴ。こちらが循環。同じ輪を、どこから回り始めるかの違いなんです。

後半と終わりは、C → G → Am → Em → F → C → F → G。有名な「カノン進行」で、これも最後のGが、また最初のCに戻りたがる形です。
そして歌の最後は、Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ(Dm7 → G7 → C)で、いちばん落ち着く「家」のCに帰ります。ジャズで、いちばん基本の終わり方です。
題名の「/」は、同じ円の、二つの呼び名なんだと思います。これは、僕の見立てです。
コードは、YouTubeの「社会人の休日」さんの弾き語り動画(コード付き)と、ヤマハのアプリ「Chord Tracker」で確かめました。
この記事で書いてきたヲロチは、まさにそれでした。
川、噴火、製鉄、壇ノ浦、疫病。時代ごとに顔ぶれと順番を入れ替えながら、毎年、神楽の舞台に戻ってくる。
この曲にたどり着いた道筋は、こうでした。
ヲロチは、何度でもよみがえる → 不死鳥 → 火の鳥 → フェニックス → 父がやっていた店の名前 → 僕の店、La Fenice(イタリア語で、不死鳥)→ このアルバム → この曲。
初めて聴いたときから、大好きな曲です。
この記事で使えるのが、むしろ光栄というか。うれしい。
この記事を書き終えて聴き直したら、この二節が、まるでヲロチの運命のように聞こえました。
かえってきたわ
また ふりだしへ
ああ まるで うつくしい
音楽のようね
おわりは はじまりへと もどるように
すべては まるい円を えがくように
まわる そしてここで とじる
ドレスコーズ「循環進行/逆循環進行」(作詞・作曲 志磨遼平)より
一度終わって、また最初に戻る。その繰り返しが、まるいひとつの円になる。
斬られても、時代が変わっても、何度でも戻ってくるヲロチの話を書いたあとだと、一行一行が、そう聞こえました。
火の鳥のことを歌った曲なのに、歌詞も、コードも、ヲロチに重なる。
ヲロチは、音楽でもあったんですね。思えば、神楽のヲロチも、笛と太鼓に乗って、毎年戻ってきます。
でも、考えてみれば、重なって当然なのかもしれません。
手塚治虫の『火の鳥』で、火の鳥は、時代の要所要所に現れます。炎の中に飛び込んで、若返って、また出てくる。不死鳥です。
ヲロチには、噴火説がありました。
山の火から生まれ、時代ごとによみがえり、循環進行と逆循環進行のように、何度でも戻ってくる。ヲロチは、不死鳥——火の鳥でもあったんです。
歌詞の全文は、Uta-Netで読めます。
ドレスコーズの公式チャンネルに、音源があります。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、おやすみなさい。

















