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砂だから、素手で掘れる。

保育園の芋掘りで、秋になると、この畑に来ます。農家さんのサツマイモ畑の、二列くらいを、保育園のために作ってもらっているんです。上の子のときは、コロナで行けない年もあったけれど、もう四、五回は来ています。

子どもたちは、スコップを使いません。手で掘る。手でも、ほんとうに簡単に掘れる。道具がいらない。

白っぽい砂の中に手を入れて、赤紫のサツマイモをつかんでいる子どもの手
砂の中の芋を、素手でつかむ(2023年10月)。

芋って、細いけど、つながっているんです。茎というか、根っこというか。それを手でたどっていける。その細いのを、なるべく切らないようにたどっていくと、また、でかい芋がある。

みんな、わーわー言いながら、楽しんで掘っています。

場所は、出雲市の西の海沿い。「西浜いも」で知られるあたりです。

この記事の四つの話の図。土が白い、川と海と風がつくった、風土記は綱と呼んだ、水も肥料もためない。掘ってしばらく置いて、じっくり焼くと甘い
白い砂の上で、芋を掘る。この記事の四つの話。

― この記事について ―

芋掘りの畑の、白っぽい砂の話です。今年は、下の子の、保育園で最後の芋掘り。その前に、この砂がどこから来たのか、なぜ芋が甘いのかを、地図と古い書物と、畑の人の話でたどってみました。

途中の「寄り道」は、たたんであります。気になったところだけ、開いてみてください。

古事記を紐解く③「オロチは、毎年来る」の続きのような話でもあります(前の話へのリンクは、記事の最後に)。

土の色が、違う

最近、そのあたりを車で何回か通ることがありました。

畑で、うね立てをしてある。それを見て、あれ、と思いました。僕がふだん土をいじっている畑のうねと、土の色が、なんか違う。

ちょっと白っぽい。

ひろし

ここ、土がちがうんちゃうかな。

西浜いもが有名だから、そのへんが砂地だというのは、聞いたことがありました。でも、目で見て「違う」と思ったのは、そのときがはじめてです。

それからしばらくして、西園町(にしぞのちょう)の、ちょうど境目に住んでいる人と知り合いました。話を聞くと、やっぱり、自分のところは砂地だと。

「砂地だから、水はけがいい。畝(うね)を立てんでも、作物が作れる」

「むしろ、水はけが良すぎて、雨が降らんかったら水やりが大変」

それを聞いてから、土を見るようになりました。

川を一本渡ったら、もう普通の土。グラデーションになっているんだろうけど、わりと、はっきり違う。運転しながらなので、畑の土が見えるところしか分からないんですけどね。

気になったので、地図で確かめてみました。

出雲平野の西部の地形分類の地図。日本海沿いに砂州・砂丘の帯が南北に続き、その東は川が運んだ土の平野。浜山の砂丘、西園町、神戸川、神西湖、湖陵町大池、薗の長浜の位置を示す
砂の帯と、川が運んだ土の境目。西園町のあたりでは、すぐ東を神戸川が流れる。

国土地理院の「地形分類」という地図があります。土地がどうやってできたかで、色を塗り分けた地図です。それで見ると、出雲平野の西の海沿いに、細長い帯がくっきり出ます。「砂州・砂丘」。砂でできた土地です。

帯の幅は、南の湖陵のあたりで海から2kmたらず。北の浜山のあたりでぐっと広がって、4km近く。

そして西園町のあたりでは、その帯のすぐ東を、神戸川が流れていました。

川を一本渡ると、普通の土。僕が車の窓から見ていた境目は、地図にもちゃんと線が引いてある境目でした。

この砂は、どこから来たのか

大昔、出雲の西は、海だった。

それを知ったのは、ゴビウスです。宍道湖のほとりにある、島根県立宍道湖自然館ゴビウス。川と湖の生きものの水族館で、子どもたちと、年間パスポートで何年も通いました。

入口を入ってすぐ、券売機の手前に、大きな島根の立体地図があります。白い、でこぼこの地図。そこに上から、プロジェクションマッピングで映像が映る。大昔から、いまの形になるまでの島根が、目の前で動いていくんです。

水族館の入口のホールで、白い立体地形模型に上から光の映像が映り、昔の海が青く広がっている。大人ひとりと子どもふたりが、うしろからのぞきこんでいる水彩
白い立体地図に、昔の海が映る(イメージ)。

いまから6000年ほど前。海面がいまより数メートルも高くて、平野の低いところは、水の底でした。いま田んぼや家が並んでいるあたりが、です。

ひろし

すごい、壮大な話やな。

ゴビウスで見た、あの光の地図を思い出しながら、国土地理院の標高と地形のデータをもとに、地図にしてみました。約2万年前から、いままでの6枚です。

出雲の地形の移り変わり。約2万年前から、いままで(模式図・音は入っていません)。
地図6枚の地図を、1枚ずつ見る。白い砂が、半島をつないでいくタップで開きます(地図もタップで大きくなります)
約2万年前の出雲の地形の模式図。海面が今より約120m低く、出雲平野も宍道湖も陸で、古宍道川が西へ流れている
約6千年前の出雲の地形の模式図。海面が今より数メートル高く、平野はまるごと入り江(古宍道湾)になり、西の砂州が口をほとんどふさいでいる
約3千5百年前の出雲の地形の模式図。三瓶山の噴火の土砂と川の砂で、入り江が南から埋まっていく
733年ごろの出雲の地形の模式図。西に神門水海があり、斐伊川は西へ流れ、東の入海(宍道湖)はいまより6kmほど西まで広がっていた
1640年ごろの出雲の地形の模式図。斐伊川が東へ向きを変え、神門水海は小さくなり、宍道湖の岸が東へ進んでいく
いまの出雲の地形。神門水海の名残が神西湖で、斐伊川は宍道湖へ流れ、放水路が神戸川へつながる

あとで地図を見て、もうひとつ知ったことがあります。ゴビウスの建っている土地も、国土地理院の地図では「干拓地」。もとは、水の底でした。

じゃあ、海だった西のほうに、どうしてこの白い砂の土地ができたのか。

この砂は、川が運んできた砂です。

神戸川と、昔は西へ流れていた斐伊川。上流の山から削られた砂を、海まで運んだ。その砂が、波で浜に打ち上げられて、強い西風で吹き上げられて、積もった。島根大学と、島根半島・宍道湖中海ジオパークが、同じようにそう説明しています。いま見えている砂の帯ができたのは、ここ数千年のあいだです。

砂の旅の図。山から海までの水彩の風景に、①山(岩がくずれて砂になる)②川(神戸川と昔の斐伊川が運ぶ)③海(波が砂を浜へ打ち上げる)④風(強い西風が陸へ吹き上げる)⑤砂丘(ここ数千年で積もった白い砂)⑥畑(その砂の上で芋が育つ)の番号と、海から陸へ吹く風の矢印を重ねた。たたらの鉄穴流しの土砂ではないという注記つき
砂の旅。山から、川、海、風、砂丘。そして、芋の畑へ。

ひとつ、自分で勘違いしかけたことを書いておきます。

前の記事で、たたら製鉄の「鉄穴流し(かんなながし)」が、山を崩して大量の土砂を川に流した話を書きました。それで、この白い砂も、たたらの砂なのかと思ったんです。

違いました。砂丘は、鉄穴流しが始まるよりずっと前からあります。いまの砂の帯の下には、十数万年前の古い砂丘も眠っているそうです。鉄穴流しの土砂が育てたのは、東の、宍道湖のほうの平野でした。

西の砂は、もっと昔の川と、海と、風がつくったものです。

寄り道山から砂が削られつづけたら、山は小さくなる? 浜は増える?タップで開きます

山から砂が削られつづけるなら、山は、だんだん小さくなっていくのか。海沿いの砂は、どんどん増えていくのか。ふと、そう思って調べました。

日本の山は、世界でもいちばん速く削られている山のひとつだそうです。平均すると、年に0.3〜0.5mm。でも同時に、地面の動きで持ち上がってもいる。山の高さは、持ち上がる速さと、削られる速さの差で決まります。出雲の砂のふるさと、中国山地は、その二つがほぼ釣り合っているあたりだと考えられています。

では、海沿いの砂は。増えるどころか、いまは減っていました。全国では、1978年からの15年ほどで、毎年およそ160ヘクタールずつ砂浜が消えていった。ダムや砂防ダムで、川から出てくる砂が減ったこと。港の防波堤が、浜を流れる砂の道をせき止めたこと。いくつもの理由が重なっています。

薗の長浜も、細っています。島根県は2015年に、この浜の砂を守る計画をつくりました。砂を足しながら、守っているそうです。1300年前の人が「綱」と呼んだ浜は、いま、人の手で守られているんです。

もう一本の綱、東の弓ヶ浜は、もっとはっきりしています。上流の日野川で鉄穴流しが盛んだった時代に、流れてきた土砂で浜が太った。鉄穴流しが終わると、砂が来なくなって、痩せはじめた。1960年には、国がじかに工事をする海岸に、全国ではじめて選ばれています。

浜は、川から来る砂と、出ていく砂の釣り合いでできている。どちらかが変われば、浜の形も変わるんです。

山は小さくなるのか、浜は太るのかの図。山は削られる(日本の山地の平均で年0.3〜0.5mm)と同時に持ち上がり、中国山地はほぼ釣り合い。川が山の砂を海へ運ぶが、ダムや砂防ダム、砂利採取で減った。浜は来る砂と出ていく砂の釣り合いで、全国で毎年およそ160ha消えていた。薗の長浜は島根県が砂を足して守り、弓ヶ浜は鉄穴流しの土砂で太って、終わると痩せた
山と浜の大きさは、砂の出入りで決まる。

ついでに、鳥取砂丘も、同じしくみでできています。中国山地の花崗岩が砕けた砂を千代川が海へ運び、冬の北西の季節風が陸へ吹き上げた。

そして、三瓶山が約11万年前に噴火したときの軽石が、出雲の砂丘にも、鳥取砂丘にも、はさまっているそうです。国引きの杭になった山の灰が、綱の中にも、となりの県の砂丘の中にも、眠っている。

風土記は、「綱」と呼んで、「白い砂」と書いた

1300年前に書かれた『出雲国風土記』に、このあたりの浜のことが出てきます。神門郡(かんどのこおり)の章です。

此(こ)は、意美豆努命(おみづぬのみこと)の国引き坐(ま)しし時の綱なり。今、俗人(くにひと)号(なづ)けて薗(その)の松山と云ふ。地(つち)の形体(かたち)は、壌(つち)も石も並びに無し。白き沙(すな)のみ積み上れり。(いまの言葉で)これは、意美豆努命が国引きをなさったときの綱である。いま土地の人は「薗の松山」と呼んでいる。土も石もなく、白い砂だけが積もっている。出雲国風土記 神門郡(訓読文)

読んで、びっくりしました。

同じ段落の中で、まず「これは国引きの綱だ」と言っている。そして、そのすぐあとに、土でもない、石でもない、「白い砂だけが積もっている」と書いている。

前の記事で書いた、国引きの神話。八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、海の向こうの余った土地に綱をかけて、出雲へ引き寄せた話です。風土記の神門郡では意美豆努命(おみづぬのみこと)と書かれていますが、同じ神さまです。その綱にあたるのが、この浜でした。

いまも西園町には長浜神社があって、この神さまをまつっています。神社の由緒にも、ここは国引きの綱「薗の長浜」の地だと書かれています。このあたりには、西園町、外園町(そとぞのちょう)と、「園」の字のつく町が並んでいます。

国引き神話の地図。島根半島を四つに色分けし、それぞれがどこから引かれてきたかを示す。綱にあたる薗の長浜と夜見島、杭にあたる三瓶山と大山
綱は、薗の長浜と夜見島(弓ヶ浜)。杭は、三瓶山と大山。

国引きの話で、僕がいちばんすごいと思うのは、その大きさです。

杭にしたのが、三瓶山。綱が、この長い浜。引き寄せたのが、日御碕や大社のあたりの土地。

そして、遠く離れた東でも、同じことをしている。杭は大山。綱は弓ヶ浜。引き寄せたのは、美保関のあたりの岬。その土地は、高志(こし)の国、いまの能登半島のあたりから引いてきた、と風土記は書いています。

地図があったかどうかも分からない時代に、これだけの大きさの地理を、二か所も、同じ流れの話に仕立てている。

いまならGoogleマップで、上から簡単に見られます。でも、車で三瓶山から長浜を通って大社まで行くだけでも、けっこう時間がかかる。それを、乗り物もない時代に。

ひろし

地図があったかも分からん時代に、これを考えたんか。

さっきの6枚の地図を見ていて、気づいたことがあります。

約6千年前、島根半島と本土のあいだは、入り江でした。その入り江の口を、西の白い砂の帯が、ふさぎかけている。そこへ約4千年前、三瓶山の噴火の土砂が神戸川を下ってきて、入り江を南から埋めていく。杭になった、あの三瓶山です。733年には、西のほうは神門水海を残して、ほとんど陸になっていました。

ひろし

ほんまに白い綱で土地を引っ張ってきたとは言わないけど、少なくとも、つないだ感じやん。

風土記は、引いてきた土地を「縫いつけた」と書いています。「国来(くにこ)、国来」と引いてきて、縫いつけた国。白い砂の綱で寄せて、入り江を埋めて、縫いつける。地図の上では、そう見えるんです。

風土記が書かれた733年には、入り江が埋まって陸でつながってから、もう3千年以上たっていました。文字もない、縄文時代のことです。昔の人が、その景色を見て思いついたのか。ずっと語り継いできたのか。それは、分かりません。

僕が車の窓から見た「ちょっと白っぽい」は、1300年前の人が見て、書き残したのと同じ白でした。

風土記は、そのあとに心配ごとまで書いています。四方から風が吹くと、砂が飛んで、松林を埋めてしまう。いまは半分埋もれて、半分残っている。やがて全部埋もれてしまうのではないか、と。

白い砂丘の浜に松林が茂り、強い風で白い砂が舞い上がって、松の根元を埋めている古代の海岸の水彩
四方から風が吹くと、砂が飛んで、松林を埋める(イメージ)。

国引きの綱の、南の端で

その綱の南の端を、風土記は「美久我林(みくがばやし)」と書いています。島根県は、これをいまの出雲市湖陵町大池のあたりとしています。

湖陵町の大池、板津、差海。昔はこのあたりを「西浜村」と呼びました。西浜いもの「西浜」は、この村の名前です。そして地形の地図で見ると、旧・西浜村は、まるごと砂州・砂丘の上にあります。

国引きの綱の、南の端で、いま、サツマイモが育っている。

出雲市湖陵町のあたりの地形の地図と年表。1300年前の風土記は綱の南の端を美久我林と書き、島根県はいまの湖陵町大池のあたりとする。1889〜1951年には大池・板津・差海が合わさって西浜村。西浜いもの名前はこの村から。旧・西浜村はまるごと砂州・砂丘の上
綱の南の端から、西浜いもの名前まで。

砂の畑は、水をためない

西園町の人の話に、もどります。「水はけが良すぎて、雨が降らんかったら水やりが大変」。

これは、数字にするとよく分かります。鳥取県が、砂丘の畑の土を、火山灰の黒い畑土(黒ボク土)と比べて測っています。

砂丘の畑と黒ボク土の比較。水の通りやすさは約10倍、雨のあと残る水は半分以下、肥料をつかまえる力は約10分の1、夏の晴れた日の表面は60℃超。雨にとけた窒素は雨200mmで1m沈む
砂の畑は、水も肥料もためない。

水の通りやすさは、およそ10倍。肥料をつかまえておく力は、10分の1ほど。雨にとけた窒素は、雨200mmで1mも下へ沈んでいきます。黒ボク土なら、半年かかる深さです。

水も、肥料も、ためておけない。だから水やりが大変。そのかわり、水がたまらないから、畑に畝(うね)を高く立てて水はけをよくする手間がいらない。西園町の人が言っていたのは、そういうことでした。

でも、それが、サツマイモには合うんです。

サツマイモは、水はけのいい土が好きで、土の栄養が多すぎると、葉やつるばかり育って、芋が太らない。農林水産省も、そう説明しています。窒素がすぐ流れていく砂の畑は、サツマイモにとっては、ちょうどいい。

それに、砂は固まらない。下のほうまで、柔らかい。だから、素手で掘れる。細い根を切らずに、たどっていける。

出雲の砂が水を吸い込んでしまうのは、昔からのことでした。江戸時代、大梶七兵衛(おおかじしちべえ)という人が、荒木浜の砂地に用水路を通そうとしたとき、水が地面にしみ込んで流れていかなかった。そこで、川底にむしろを敷いて、粘土で固めた。いまの高瀬川です。

江戸時代の砂地で、人びとが水路の底にむしろを敷き、粘土で固めている。奥では砂山の陰に草と松の苗木が植えられている水彩
砂にしみ込む水を、むしろと粘土で止めた(イメージ)。

七兵衛は、風で動く砂を止める松林も育てました。木の枝を編んだ垣で砂をため、アサドリ(アキグミ)や浜萩で砂を落ち着かせてから、松を植えた、と伝えられています。松は8列に植えられて「八通り山」と呼ばれ、いまも大社町荒木に残っています。風土記が「やがて埋もれてしまうのでは」と心配していた砂を、止めようとした人がいたわけです。

砂地に向く作物、向かない作物

ここまで来て、気になりました。サツマイモが砂地に向いているのは分かった。じゃあ、ほかには? 逆に、向いていないものは?

砂地に向く作物と向かない作物を、野菜の水彩で並べた図。根や芋が深く伸びる長芋・大根・ごぼう・にんじん・らっきょう、根が水びたしを嫌うスイカ・メロン・ねぎ、栄養が多すぎると困るサツマイモ。育たないと名指しされた作物は見つからず、トマトときゅうりは金沢や福井の砂丘地のハウスで盛ん、白菜は推測。出雲の砂丘地で確かめられたのはサツマイモとぶどう
砂地に向く作物、向かない作物。

向いているのは、大きく分けて二種類ありました。

ひとつは、根や芋が深く伸びるもの。長芋、大根、ごぼう、にんじん、らっきょう。砂は固まらないから、まっすぐ下へ伸びていけます。

もうひとつは、根が水びたしを嫌うもの。スイカ、メロン、ねぎ。スイカのふるさとは、アフリカの砂漠のあたりです。

鳥取のらっきょう畑で、スプリンクラーが水をまいているのを見たことがあります。国道沿いに畑がずっと続いていて、運転しながらでもよく見える。あれにも、ちゃんと理由がありました。

寄り道らっきょう畑のスプリンクラーと、「嫁殺し」タップで開きます

らっきょうは特別で、全国の砂の畑でよく作られている作物のうち、砂地のほかに大きな産地がないのは、らっきょうだけだそうです。

僕がスプリンクラーを見たのは、鳥取砂丘に行ったときと、大阪へ帰るときに国道を通ったとき。名探偵コナンの作者の記念館があるあたりの国道沿いに、畑がずっと続いていて、スプリンクラーが高いところに立っているんです。

昔は、日照りの夏、10アールに毎日7〜10トンの水を、桶と天秤棒で運んでいたそうです。その仕事は「嫁殺し」と呼ばれた。

1953年に鳥取大学がアメリカ製のスプリンクラーで試験を始めて、1977年に、らっきょう畑のスプリンクラーの設備ができあがりました。

鳥取の国道沿いのらっきょう畑。白っぽい砂の畑に細い葉が並び、背の高いスプリンクラーが水をまいている水彩
国道沿いの、らっきょう畑のスプリンクラー(イメージ)。

じゃあ、向いていないものは。

意外なことに、公的な資料で「砂地では育たない」と名指しされた作物は、見つかりませんでした。水と肥料を足せば、たいていの作物が作れるそうです。

白菜は、たしかに砂地の側で見た覚えがありません。水をたくさん欲しがるのに、水びたしには弱い。砂の畑では、そのさじ加減が難しいのかもしれません。これは僕の推測です。

そういえば、「海の砂では植物は育たない」と聞いたことがあります。あれは、砂のせいなのか、塩のせいなのか。

調べてみると、両方でした。でも、いちばん大きいのは、砂が風で動くこと。埋められたり、根元を削られたり。塩も害にはなるけれど、雨で抜けます。水はけのいい砂ほど、早く抜ける。

海岸の断面の水彩に、浜で植物が育ちにくい理由を重ねた図。波打ちぎわに近いほど、風で砂が動き、塩をふくんだ風が強い。陸へ離れるほど、低い草、背の高い草、低い木と松林へと植物がふえる。塩は雨で抜け、水はけのいい砂ほど早く抜ける
浜で育ちにくいのは、塩より、動く砂。
寄り道塩のせい? 砂のせい? もう少しくわしくタップで開きます

鳥取大学は、鳥取砂丘で植物が育ちにくい主な原因を、強い風で砂が動くことだと書いています。そこに、栄養の少なさと、塩をふくんだ風と、夏の熱が重なる。

塩も、たしかに害になります。土の塩が濃くなると、根が水を吸えなくなる。ふつうの土でも、塩がたまりつづければ、作物は育たなくなります。雨の当たらないハウスで、肥料の塩が土の表面にたまって困るのも、同じしくみです。

塩をかかえこんで抜けにくいのは、むしろ泥のような細かい土のほうでした。

出雲には、年に1,700mmほど雨が降ります。海から少し離れて、砂が動かなくなれば、砂の畑は、ちゃんと畑になる。七兵衛たちが、まず松林で砂を止めたのは、そういうことだったんだと思います。

出雲の砂丘地で、公的な資料で確かめられた作物は、サツマイモと、ぶどうでした。たしかに、浜山のあたりは、ぶどう畑だらけです。いまでは島根県のぶどうの約8割を、出雲市がつくっています。土から考えると、出雲がぶどうの産地なのも、納得でした。

甘い。ほくほく。

西浜いもは、出雲に来るまで知りませんでした。

はじめて食べたのは、島根に来て一年くらいたったころです。当時働いていたレストランに、有機のトマトを届けてくれていた農家さんがいました。湖陵の人で、西浜地区にも畑を持っている。その畑で育てた「べにはるか」を、持ってきてくれたんです。

芋を受け取るとき、その人が教えてくれました。ゆっくり、ゆっくり火を入れたら、甘くなる、と。

それで、薪ストーブの熾火(おきび)で、ゆっくり火を入れてみました。ほんとうに、甘かった。

薪ストーブの熾火と灰の中に、アルミホイルで包んだサツマイモが並び、ひとつだけ開いたホイルから黄金色の中身がのぞいている水彩
熾火の中で、ゆっくり、ゆっくり(イメージ)。

その芋の甘さだけで、ドルチェにしました。タルトです。

渦巻き模様に焼き色のついたタルト。切り分けた一切れから、黄色い芋のフィリングが見える。ヒイラギの葉が添えてある
べにはるかのタルト。芋の甘さだけで(2016年12月)。

一緒にもらった紅あずまは、ニョッキにしました。

めちゃくちゃこだわっている農家さんの芋だったから、特別おいしかったんだと思います。

料理人として、西浜いもの味を言葉にすると。

甘い。甘いは甘い。掘って、しばらく置いてからですけどね。それと、ほくほく感がある。まあ、品種にもよると思います。

西浜いもには、ほくほく系の「紅あずま」と、しっとり系の「べにはるか」があります。

「しばらく置いてから」には、理由があります。サツマイモは、掘ったあと置いておくと、デンプンの一部が糖に変わって、甘くなっていく。掘りたてより、少し寝かせたほうが甘いんです。農研機構も、収穫した「べにはるか」を11〜13℃で2週間ほど置いてから出すと、糖化が進んで、焼き芋の評価が上がると報告しています。

うちでは、芋掘りで持って帰った芋を、段ボールに入れて、ひと月か、ふた月、寝かせます。サツマイモは寒さに弱いので、冷蔵庫より、段ボールのほうが合っているんです。

そして、焼き方でも甘さが変わります。サツマイモの中には、デンプンを麦芽糖に変える酵素があって、この酵素は75〜85℃を超えると働きが弱まる。だから、ゆっくり温度が上がるほど、酵素が長く働いて、甘くなる。焼き芋が甘いのは、そのせいです。電子レンジで一気に温めると、甘さが出にくい。

あの農家さんの「ゆっくり、ゆっくり」には、ちゃんと理由があったんです。

サツマイモが甘くなる二つの時間の図。掘ってから置くとデンプンの一部が糖に変わること、ゆっくり焼くほど酵素のβ-アミラーゼが長く働いて甘くなることを、オーブンと電子レンジの温度の上がり方のグラフで示す
甘くなる、二つの時間。置いて、ゆっくり焼く。

よく聞くけれど、公的な資料では確かめられなかったこと

  • 「砂は昼によく温まるから、芋が甘くなる」……砂の畑の温度と芋の甘さを、直接むすびつけた資料は見つからなかった
  • 「潮風のミネラルで甘くなる」……販売のページで見かける言い方。公的な裏づけは見つからなかった
  • どちらも「間違い」という意味ではありません。確かめられなかった、というだけです

家では、焼き芋にしたり、蒸したり、芋ご飯にしたり。

料理にもよく使います。玉ねぎでも、にんじんでも、なんでもいいんですけど、輪切りにして、ちょっと塩をふって、オリーブオイルをかけて、オーブンでじっくり焼く。野菜のオーブン焼きです。そこに西浜いもも一緒に入れて、焼いてしまう。

天板で焼いた野菜のオーブン焼き。にんじん、トマト、ズッキーニ、赤玉ねぎ、かぼちゃなどに、ローズマリーとタイムがのっている
いつもの、野菜のオーブン焼き。塩とオリーブオイルで、じっくり焼く。

オーブンでじっくり焼くのは、酵素の話から言っても、甘くなりやすいやり方でした。

買うのは、このあたりなら、スーパーで普通に売っています。

遠くに住んでいる人は、出雲市のふるさと納税でも取り寄せられます。JAしまね出雲地区本部の「べにはるか」で、発送は11月上旬から1月下旬まで。届いたら冷蔵庫には入れずに、新聞紙などでくるんで、13〜15℃くらいのところに置いてください、とあります。

この記事のまとめの図。砂は神戸川と昔の斐伊川が運び西風が積み上げた、綱は風土記が国引きの綱と呼び白い砂だけと書いた浜、芋は水も肥料もためない砂で太り素手で掘れる
砂と、綱と、芋。

国引きの綱の上で、芋を掘る

芋掘りは、毎年あるとはかぎりません。

天気が悪いと、なくなる。一昨年がそうでした。親子の芋掘りは中止になって、先生と年長さんだけで、平日に掘りに行く形になりました。

去年も、前の日から、天気があやしかった。念のため、子どもたちのカッパを車に積んでいきました。

始まって、まもなく、雨。ほとんどの親子は、帰っていきました。

うちの二人は、カッパを着て、掘りつづけた。

先生たちも、だいぶ引きあげていって。最後に「もういいよ」と言われるまで、二人で、一生けんめい掘っていました。

雨の降る秋の砂の畑で、青と黄色のカッパを着た二人の男の子が、しゃがんで素手でサツマイモを掘っている。奥では、傘をさした人たちが帰っていく水彩
去年の芋掘り。雨の中、二人で、最後まで(イメージ)。

上の子は、去年もう小学生でした。それでも一緒に来られたのは、芋掘りが土曜日だったからです。保育園の行事は、働き方改革で平日になったものが多いけれど、芋掘りは、まだ土曜日にある。だから兄弟で、最後までがんばれた。

家に帰って、濡れた芋を乾かして、段ボールに入れました。

今年は、下の子が、保育園の最後の年です。

だから、今年が、最後の芋掘り。

もし雨なら、延期はなくて、平日に先生と年長さんだけで掘りに行くことになる。家族の芋掘りは、なくなってしまう。一昨年のように。

神戸川と、昔の斐伊川が運んだ砂。それを西風が積み上げた浜。1300年前の人が「白い砂」と書いて、神話が「綱」と呼んだ浜。

その砂の畑で、今年も、素手で芋を掘りたい。細い根を切らないように、たどっていくと、また、でかい芋がある。

今年は最後だから、いい天気であってほしい。

そう、願っています。

今日の一曲

DREAMS COME TRUEで、「晴れたらいいね」。1992年のシングルで、NHKの朝ドラ「ひらり」の主題歌でした。

次の休みに、出かけよう。晴れたらいいね。そう願う歌です。

歌の中に、幼稚園の最後の日の思い出が出てくるところがあります。歌では幼稚園ですけど、うちは保育園。下の子は、来年の春、保育園を卒園します。

最後の芋掘りの日の朝、きっと空を見上げながら、この歌を口ずさんでいると思う。

晴れたらいいね。ほんとうに。

DREAMS COME TRUEの公式チャンネルに、2011年のライブ映像があります。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。