コーヒーの話の、第9回です。

先日、出雲の古民家で、お月見の会の料理をつくりました。コースの最後は、デミタス。その一杯を、初めてネルで淹れました。

ネルは、六年前にもらったものです。くれたのは、「タンゴのおじさん」。ネルを手作りして、配り歩いているおじさんです。

今日は、そのネルの話です。

「珈琲愛好家 タンゴのおじさん 手作りネルドリッパー」と書かれた説明の紙の上に置かれた、白いネルと針金の輪
もらったときの袋の中身。説明の紙と、ネルと、針金の輪。2020年6月。

噂だけ、聞いていた

雲南市に、つちのと舎という店があります。三瓶さんご夫婦の店で、ご主人が手回しの焙煎機で豆を焼く。

何かのときに、三瓶さんとゆっくり話をしました。焙煎の話を聞いているうちに、こんな話が出た。

「素材にこだわって、自分で作ったネルを配り歩いている、コーヒー好きのおじさんがいるよ」

え、売ってるんじゃなくて、配ってるんですか。無料で? すごいっすね。そのときは、それくらいの話でした。

「ちょっと待ってて」

出雲市斐川町の坂田に、ナナイロというチョコレートの店があります。チョコレートの店ですが、コーヒーも淹れてくれる。

格子模様の壁に、LA CHOCOLATERIE NANAIRO のロゴが浮かぶ、夜のナナイロの外観
ナナイロの、夜の看板。2019年8月。

噂を聞いてから、しばらくたったある日。カウンターに座って、店の人とコーヒーの話をしていました。そこへ、あとから来たおじさんが、隣の隣くらいに座った。メガネのおじさんです。

そのうち、話に入ってきた。しばらく話していると、こう言われました。

「ちょっと待ってて」

おじさんは車に戻って、何かを取って帰ってきた。それが、ネルでした。

ひろし

あなたが、あの噂のおじさんですか。

つちのと舎で聞いた噂が、目の前にいた。びっくりしました。

「これで淹れてみて」

それだけ言って、袋を渡してくれました。袋の中には、真っ白な布のネルと、手で曲げた針金の輪と持ち手。それと、手書きの地図が一枚。

島根と鳥取のコーヒー店8軒が手書きされたA4の地図。右下に「珈琲愛好家 タンゴのおじさん お気に入りの店」と、ラーメンやそばの店の一覧
一緒に入っていた、手書きの地図。店の情報は2020年当時のものです。

島根と鳥取のコーヒー屋さんが、八軒。つちのと舎も、ナナイロも、松浦珈琲も、いつも豆を買っているストリングスも載っている。右下には、「珈琲愛好家 タンゴのおじさん お気に入りの店」。その下に、ラーメンとそばとジェラートの店まで書いてありました。

たぶん、話しているうちに、通じ合うものがあったんだと思います。

この地図の店のうち、ナナイロ、つちのと舎、ストリングス、珈琲がらがら、松浦珈琲には、行きました。気がつけば、五軒です。

原さんの、薄いカップ

ネルをもらった年の夏、ナナイロで、松江の陶芸家・原洋一さんの展示がありました。原さんのカップでコーヒーを飲める企画があって、僕は会期中に二回行きました。一回に、二杯か三杯は飲んだと思います。

カップの形は、いまでもよく覚えています。取っ手のない、細長い筒。上に向かって、少しだけすぼまっていく。足もとだけ、少し広がっている。色は白ではなく、うすいエメラルド色と灰色がまざったような色でした。藍色のギザギザの柄のものもあれば、柄のないものもありました。

取っ手のない、上に向かって少しすぼまる細長い筒の形をした、うすいエメラルド色と灰色がまざったような色の磁器のデミタスカップが三つ。藍色のギザギザの柄が二つと、柄のないものが一つ。中には濃いコーヒー。水彩のイラスト
原さんのデミタスカップ。記憶をもとに描いてもらったイラストです。

原さんのカップは、飲み口がめちゃくちゃ薄い。ワイングラスを思い浮かべてもらうと、わかりやすいと思います。マグカップで飲むより、味わいが直で来る。

原さんご本人が、たまたま会場にいました。磁器でここまで薄くするのは、すごく難しい。試行錯誤を繰り返した、と言っていました。コーヒーの話より、バイクの話で盛り上がった。

原洋一さんの染付の鉢の中を、頭だけが赤い白い金魚が泳いでいる。鉢の内側に藍色のギザギザの模様
原さんの鉢の中を、金魚が泳いでいた。2020年8月、ナナイロで。

正直に書くと、順番の記憶があいまいです。ずっと、原さんの展示のときにおじさんに会った、と思っていました。でも写真の日付を見ると、ネルをもらったほうが、二か月早い。おじさんから、原さんの展示のことを聞いたのかもしれない。そのあたりがひとまとまりの記憶となって、残っているようです。

六年、使えなかった

すぐ使うと思っていました。使えませんでした。

ネルは、一度使い始めると、管理が難しい。水につけて冷蔵庫に入れておかないといけない、とか。そういう話を知っていたので、ちょっと敬遠していました。

うちのおかんは、いまも毎日コーヒーを淹れる人で、ネルも持っています。「ネル、送ろうか」と言われたこともある。それでも、使わなかった。

ネルは、袋に入ったまま、六年たちました。

透明の袋に入ったままの、白いネルと針金の輪
袋に入ったままだったネル。

出番

お月見の会のコースで、最後にデミタスを出すと決めたとき、思いました。このネルの出番だ、と。

手で曲げた針金の輪と持ち手、その横に置いた白いネルの布
針金の輪と持ち手、それとネルの布。

袋に入っていた説明の紙のとおり、まず、お湯で十分間ほど煮ました。それから、本番までに三回、練習しました。

針金の輪にはめて袋の形になった、白いネル
輪にはめたところ。

豆は、ストリングスのグアテマラ アンティグア。お月見の会の日の朝に焼いた豆です。

一回目は、二人前。濃さはいいけれど、クリアさが足りない。二人前で、ネルの高さの半分以上を使いました。五人前を一度には無理かもしれない、と思った。

二回目は、三人前。一人分の豆の量は変えずに、挽き方を粗くしました。いい方向にいった。でも、もう少し。

三回目は、五人前。もう一段、粗く。お湯を入れる前、粉を入れただけで、大丈夫かな、と思うくらいの量でした。

それが、膨らんだ。焼きたての豆は、お湯を落とすと、ドーム状に膨らみます。粉はネルの縁まで来ていて、ドームは完全に、ネルの上に出ている。ギリギリでした。あの膨らみがあったから、淹れられたようなものです。

第7回に、焼きたての豆は暴れて淹れにくい、と書きました。でも今回は、その膨らみに助けられた。

注ぎ方は、真ん中にひたすら。デミタスは、お湯をポタポタと、一滴ずつ落としていきます。だから、どれだけ膨らんでも、噴火してしまうことはない。本番の五人前も、四分以内に収まりました。

白いネルの中で、コーヒーの粉がドームのように縁より高く膨らみ、その真ん中に細口のケトルから細いお湯が落ちている水彩のイラスト。下にガラスのサーバー、手前にデミタスカップ
五人前の粉が、ネルの縁より上まで膨らんだ。記憶をもとに描いてもらったイラストです。

それまでデミタスは、ペーパーで淹れていました。初めてネルで淹れてみて、思った。

ひろし

ああ、絶対こっちやわ。

ケータリングには、もうドリッパーもペーパーも、いらない。ネルが一枚あればいい。荷物が、減った。

心配していた管理は、松浦珈琲の松浦さんに教えてもらいました。使ったら水で洗って、絞って、そのままビニール袋に入れて冷凍庫へ。それならできるかな、と思いました。今回のネルも、いまはそうやって冷凍庫で保管しています。

雨のお月見になりました。それでも、最後の一杯まで、みなさん「おいしい」と飲んでくれました。

ひとまとまりになった

淹れながら、思っていました。これまでのコーヒーのいろんな経験が、ひとつにまとまった気がする、と。

中川ワニさんに教わった、真ん中に注ぎ続ける淹れ方。

松浦珈琲で飲んだ、デミタス。

原さんの、薄い飲み口のカップ。

そして、タンゴのおじさんのネル。

そういうものが全部、その一杯に入っていた。コースの最後の一杯が、やっと、あった。そんな感じがしました。

タンゴ検定

ストリングスの飯島さんも、おじさんのネルを何本も持っていました。その飯島さんから、こんな話を聞きました。

ストリングスにアルバイトに来ている人がいて、タンゴのおじさんが店に来ると、「ちょっと淹れてみて」となる。淹れるところを、じっと見られる。淹れた一杯をおじさんに出して、合格かどうか。これを、「タンゴ検定」と呼ぶそうです。

ひろし

緊張しそう。

タンゴのおじさんが、ふだん何をしている人なのか、僕はよく知りません。正体不明で、神出鬼没の、素敵なおじさま。コーヒーへの愛だけは、確かです。

伝えたいこと

何年も使わずにいて、すみませんでした。あのときも、ありがとうと言ったと思います。でも、いまは、心の底から、ありがとうと思っています。

いつか、僕のコースを、前菜から食べてもらいたい。最後のデミタスを、おじさんのネルで淹れて、味わってもらいたい。僕にとって、最後のコーヒーはおまけではなくて、コースの一品です。

そのコーヒーを淹れるときは、タンゴ検定でいい。それが、僕の初めてのタンゴ検定なら、面白いと思っています。

今日の一曲

お月見の会で、月見団子のあとに出したデミタス。それを淹れたのが、タンゴのおじさんのネルでした。だから今日の一曲は「だんご3兄弟」……と言いたいところですが(笑)、今回は、これにします。

ケイジャン・ダンス・パーティーの「カラフル・ライフ」。ロンドンの十代が組んだバンドの、2008年のデビューアルバム『The Colourful Life』の一曲目です。

正体不明で神出鬼没の、タンゴのおじさん。

元バンドマンの、飯島さん。

料理人の、僕。みんな、それぞれの人生を歩いているんだなぁ、と思いました。だから、カラフル・ライフです。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。