「これで淹れてみて」|六年使えなかった、タンゴのおじさんのネル
コーヒーの話の、第9回です。
先日、出雲の古民家で、お月見の会の料理をつくりました。コースの最後は、デミタス。その一杯を、初めてネルで淹れました。
ネルは、六年前にもらったものです。くれたのは、「タンゴのおじさん」。ネルを手作りして、配り歩いているおじさんです。
今日は、そのネルの話です。

噂だけ、聞いていた
雲南市に、つちのと舎という店があります。三瓶さんご夫婦の店で、ご主人が手回しの焙煎機で豆を焼く。
何かのときに、三瓶さんとゆっくり話をしました。焙煎の話を聞いているうちに、こんな話が出た。
「素材にこだわって、自分で作ったネルを配り歩いている、コーヒー好きのおじさんがいるよ」
え、売ってるんじゃなくて、配ってるんですか。無料で? すごいっすね。そのときは、それくらいの話でした。
「ちょっと待ってて」
出雲市斐川町の坂田に、ナナイロというチョコレートの店があります。チョコレートの店ですが、コーヒーも淹れてくれる。

噂を聞いてから、しばらくたったある日。カウンターに座って、店の人とコーヒーの話をしていました。そこへ、あとから来たおじさんが、隣の隣くらいに座った。メガネのおじさんです。
そのうち、話に入ってきた。しばらく話していると、こう言われました。
「ちょっと待ってて」
おじさんは車に戻って、何かを取って帰ってきた。それが、ネルでした。
あなたが、あの噂のおじさんですか。
つちのと舎で聞いた噂が、目の前にいた。びっくりしました。
「これで淹れてみて」
それだけ言って、袋を渡してくれました。袋の中には、真っ白な布のネルと、手で曲げた針金の輪と持ち手。それと、手書きの地図が一枚。

島根と鳥取のコーヒー屋さんが、八軒。つちのと舎も、ナナイロも、松浦珈琲も、いつも豆を買っているストリングスも載っている。右下には、「珈琲愛好家 タンゴのおじさん お気に入りの店」。その下に、ラーメンとそばとジェラートの店まで書いてありました。
たぶん、話しているうちに、通じ合うものがあったんだと思います。
この地図の店のうち、ナナイロ、つちのと舎、ストリングス、珈琲がらがら、松浦珈琲には、行きました。気がつけば、五軒です。
原さんの、薄いカップ
ネルをもらった年の夏、ナナイロで、松江の陶芸家・原洋一さんの展示がありました。原さんのカップでコーヒーを飲める企画があって、僕は会期中に二回行きました。一回に、二杯か三杯は飲んだと思います。
カップの形は、いまでもよく覚えています。取っ手のない、細長い筒。上に向かって、少しだけすぼまっていく。足もとだけ、少し広がっている。色は白ではなく、うすいエメラルド色と灰色がまざったような色でした。藍色のギザギザの柄のものもあれば、柄のないものもありました。

原さんのカップは、飲み口がめちゃくちゃ薄い。ワイングラスを思い浮かべてもらうと、わかりやすいと思います。マグカップで飲むより、味わいが直で来る。
原さんご本人が、たまたま会場にいました。磁器でここまで薄くするのは、すごく難しい。試行錯誤を繰り返した、と言っていました。コーヒーの話より、バイクの話で盛り上がった。

正直に書くと、順番の記憶があいまいです。ずっと、原さんの展示のときにおじさんに会った、と思っていました。でも写真の日付を見ると、ネルをもらったほうが、二か月早い。おじさんから、原さんの展示のことを聞いたのかもしれない。そのあたりがひとまとまりの記憶となって、残っているようです。
六年、使えなかった
すぐ使うと思っていました。使えませんでした。
ネルは、一度使い始めると、管理が難しい。水につけて冷蔵庫に入れておかないといけない、とか。そういう話を知っていたので、ちょっと敬遠していました。
うちのおかんは、いまも毎日コーヒーを淹れる人で、ネルも持っています。「ネル、送ろうか」と言われたこともある。それでも、使わなかった。
ネルは、袋に入ったまま、六年たちました。

出番
お月見の会のコースで、最後にデミタスを出すと決めたとき、思いました。このネルの出番だ、と。

袋に入っていた説明の紙のとおり、まず、お湯で十分間ほど煮ました。それから、本番までに三回、練習しました。

豆は、ストリングスのグアテマラ アンティグア。お月見の会の日の朝に焼いた豆です。
一回目は、二人前。濃さはいいけれど、クリアさが足りない。二人前で、ネルの高さの半分以上を使いました。五人前を一度には無理かもしれない、と思った。
二回目は、三人前。一人分の豆の量は変えずに、挽き方を粗くしました。いい方向にいった。でも、もう少し。
三回目は、五人前。もう一段、粗く。お湯を入れる前、粉を入れただけで、大丈夫かな、と思うくらいの量でした。
それが、膨らんだ。焼きたての豆は、お湯を落とすと、ドーム状に膨らみます。粉はネルの縁まで来ていて、ドームは完全に、ネルの上に出ている。ギリギリでした。あの膨らみがあったから、淹れられたようなものです。
第7回に、焼きたての豆は暴れて淹れにくい、と書きました。でも今回は、その膨らみに助けられた。
注ぎ方は、真ん中にひたすら。デミタスは、お湯をポタポタと、一滴ずつ落としていきます。だから、どれだけ膨らんでも、噴火してしまうことはない。本番の五人前も、四分以内に収まりました。

それまでデミタスは、ペーパーで淹れていました。初めてネルで淹れてみて、思った。
ああ、絶対こっちやわ。
ケータリングには、もうドリッパーもペーパーも、いらない。ネルが一枚あればいい。荷物が、減った。
心配していた管理は、松浦珈琲の松浦さんに教えてもらいました。使ったら水で洗って、絞って、そのままビニール袋に入れて冷凍庫へ。それならできるかな、と思いました。今回のネルも、いまはそうやって冷凍庫で保管しています。
雨のお月見になりました。それでも、最後の一杯まで、みなさん「おいしい」と飲んでくれました。
ひとまとまりになった
淹れながら、思っていました。これまでのコーヒーのいろんな経験が、ひとつにまとまった気がする、と。
中川ワニさんに教わった、真ん中に注ぎ続ける淹れ方。
松浦珈琲で飲んだ、デミタス。
原さんの、薄い飲み口のカップ。
そして、タンゴのおじさんのネル。
そういうものが全部、その一杯に入っていた。コースの最後の一杯が、やっと、あった。そんな感じがしました。
タンゴ検定
ストリングスの飯島さんも、おじさんのネルを何本も持っていました。その飯島さんから、こんな話を聞きました。
ストリングスにアルバイトに来ている人がいて、タンゴのおじさんが店に来ると、「ちょっと淹れてみて」となる。淹れるところを、じっと見られる。淹れた一杯をおじさんに出して、合格かどうか。これを、「タンゴ検定」と呼ぶそうです。
緊張しそう。
タンゴのおじさんが、ふだん何をしている人なのか、僕はよく知りません。正体不明で、神出鬼没の、素敵なおじさま。コーヒーへの愛だけは、確かです。
伝えたいこと
何年も使わずにいて、すみませんでした。あのときも、ありがとうと言ったと思います。でも、いまは、心の底から、ありがとうと思っています。
いつか、僕のコースを、前菜から食べてもらいたい。最後のデミタスを、おじさんのネルで淹れて、味わってもらいたい。僕にとって、最後のコーヒーはおまけではなくて、コースの一品です。
そのコーヒーを淹れるときは、タンゴ検定でいい。それが、僕の初めてのタンゴ検定なら、面白いと思っています。
今日の一曲
お月見の会で、月見団子のあとに出したデミタス。それを淹れたのが、タンゴのおじさんのネルでした。だから今日の一曲は「だんご3兄弟」……と言いたいところですが(笑)、今回は、これにします。
ケイジャン・ダンス・パーティーの「カラフル・ライフ」。ロンドンの十代が組んだバンドの、2008年のデビューアルバム『The Colourful Life』の一曲目です。
正体不明で神出鬼没の、タンゴのおじさん。
元バンドマンの、飯島さん。
料理人の、僕。みんな、それぞれの人生を歩いているんだなぁ、と思いました。だから、カラフル・ライフです。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。

















