こんばんは、ひろしです。

古事記を紐解くシリーズ、第4回は出雲大社です。

― ざっくり言うと ―

国譲りは、大国主(おおくにぬし)が国を天の神の子孫に譲る話。そのかわりに求めたのが、天まで届くような住まいでした。
でも、古事記・日本書紀・出雲国風土記(いずものくにふどき)で、話はけっこうちがう。出雲だけは譲っていない本もある。
そして、ただの言い伝えだと思っていた「高い社」の柱は、2000年、地面の中から本当に出てきた。

― この記事について ―

いつもどおり、古事記などに書いてあること 資料で確かめたこと 僕の見立て は、分けて書きます。

途中の「寄り道」は、たたんであります。気になったところだけ、開いてください。

はじめての出雲大社

はじめて出雲大社に行ったのは、2015年の秋です。

まだ富山に住んでいたころ。島根のワイナリーを見学する、1泊2日の旅の2日目でした。
たまたま近くに嫁いで来ていた妹と、当時まだ2歳だった甥っ子と、一緒にお参りしました。

正直に言うと、神社に特別くわしいわけでも、好きなわけでもありません。
ただ、こんなに大きな神社に来たのは、はじめてでした。

鳥居をくぐってから、ずっと歩く。参拝って、行くまでがこんなに長いのか、と思いました。

2015年10月の出雲大社。拝殿へ向かう松の参道
2015年10月。拝殿へ向かう、松の参道。

そのとき、妹が教えてくれました。
出雲大社のお参りは、二礼四拍手一礼。手を打つのが、ふつうの神社の倍なんです。

寄り道|なぜ、四拍手なのか

出雲大社の説明では、5月14日の例祭では8回手を打つ。8は、限りないことを表す数。ふだんは、その半分の4回。

では、いつから四拍手なのか。そこは、はっきりしていません。出雲大社の説明にも、始まった時期は書かれていない。

ちなみに神社本庁も、二礼二拍手一礼を基本としつつ、「神社によっては特殊な拝礼方法を行っているところもあります」と書いています。

2015年10月の出雲大社の拝殿。前のしめ縄が掛かっている
2015年の拝殿。

そのとき撮ったスナップが、良かったんです。

そのあと、島根に移ることが決まったとき、まっさきに思いました。
「これで休みの日、毎週、出雲大社に写真撮りに行けるやん」

実際には休日はほとんど食材探しや仕入れに行っていたので、毎週とはいきませんでした。
それでも、ときどき通っています。

ひろし

写真好きの、わりと不純な動機です。

国譲りって、どんな話?

出雲大社は、古事記の「国譲り」の話につながる神社です。まず、あらすじから。

古事記に書いてあること

地上の国を造ったのは、大国主という神さま。
そこへ、天の上の高天原(たかまがはら)から、「この国は、天の神の子孫が治めるべきだ」と、使者がやってきます。

何度目かの使者、タケミカヅチは、出雲の伊耶佐(いざさ)の小浜に降り立ちました。
剣を抜いて、切っ先を上にして波の上に立て、その切っ先に、あぐらをかいて座る。そして大国主に問います。「この国を、譲るか」

国譲りの場面。夕暮れの海に剣を逆さに立て、その切っ先にあぐらをかいて座る天の神の使者。水彩画
剣の切っ先に、あぐらをかく使者。国譲りの、いちばん有名な場面。

大国主は、「息子のコトシロヌシが答えます」と言う。
美保の岬で釣りをしていたコトシロヌシは、承知して、青柴垣(あおふしがき)の中に隠れました。

もうひとりの息子、タケミナカタは、大きな岩を手の先にのせて現れ、力くらべを挑みます。
でも負けて、信濃の諏訪(すわ)の湖まで逃げ、「ここから出ない」と誓いました。

最後に大国主が出した条件が、これです。

私の住まいを、天の神の御子が受け継ぐ宮殿のように、地の底の岩に柱を太く立て、空に届くほど高く造ってくれるなら、私は隠れていよう。古事記・国譲りの段(大意)

そして、出雲の多芸志(たぎし)の小浜に、天の御舎(みあらか)が造られた。

国譲り、古事記のあらすじ。天の神の使者タケミカヅチが出雲の伊耶佐の小浜に降り、剣を波に逆さに立てて切っ先にあぐらをかき、国を譲るかと問う。息子コトシロヌシは美保の岬で釣りをしていて承知し、青柴垣に隠れる。もう一人の息子タケミナカタは大岩を手に力くらべを挑むが負け、信濃の諏訪の湖まで逃げてこの地から出ないと誓う。大国主は、住まいを天の神の御子の宮殿のように高く立派に造ってくれるなら隠れていようと条件を出し、出雲の多芸志の小浜に天の御舎が造られた。譲った側が、いちばん大きな家に住む。各段に水彩の小さな絵つき
国譲り、古事記のあらすじ。譲った側が、いちばん大きな家に住む。

負けた側の話のはずなのに、譲った側が、いちばん大きな家に住む。
ちょっと、不思議です。

寄り道|「出雲大社」という名前は、出てこない

古事記の条件は、「僕(あ)が住所(すみか)」。造った場所は「多芸志の小浜」。
社の名前も、杵築(きづき)という地名も、書かれていません。これを出雲大社の始まりと結びつけているのは、出雲大社や日本遺産などの説明、つまり、のちの解釈です。

古代の名前は、杵築大社(きづきのおおやしろ)。出雲大社になったのは、1871年(明治4年)です。
ふだんは「いづもたいしゃ」。正式には「いづもおおやしろ」と読みます。

出雲国風土記には、杵築という地名の由来が書いてあります。大国主の宮を造るために、神々が集まり、杵(きね)で突き固めて築いた。だから、きづき。

そして日本書紀には、659年に「出雲国造(いずものくにのみやつこ)に命(おほ)せて、神の宮を修厳(つくりよそ)はしむ」とある。この「神の宮」が出雲大社のことなら、7世紀には、もう社殿があったことになります。

三つの本で、話がちがう

国譲りの話は、古事記だけのものではありません。
日本書紀にも、出雲国風土記にも出てくる。そして、読み比べると、話がけっこうちがうんです。

国譲り、三つの書き方。古事記(712年)は大国主が立派な住まいを条件に出す。日本書紀の本文(720年)は宮の話が出てこず、大国主は矛を渡して隠れるだけ。日本書紀の一書では天の神の側から宮を造りましょうと申し出る贈り物で、目に見えることは天の神の子孫が、目に見えないことは大国主が治める。出雲国風土記(733年)は使者も力くらべもなく、国は譲るが八雲立つ出雲の国は私が静まる国と言う。どの本も大国主を悪者にしていない。各段に水彩の小さな絵つき
国譲り、三つの書き方。同じ話でも、本によってちがう。

読み比べると

  • 古事記(712年):大国主が条件を出す。「住まいを立派に造ってくれるなら」
  • 日本書紀・本文(720年):宮の話は、出てこない。大国主は矛を渡して、隠れるだけ
  • 日本書紀・一書(あるふみ):天の神の側から、「あなたの住む宮を造りましょう。柱は高く太く、板は広く厚く」と申し出る。条件ではなく、贈り物
  • 出雲国風土記(733年):使者も、力くらべも、出てこない。大国主が自分から「国は譲る。ただし、八雲立つ(やくもたつ)出雲の国は、私が静まる国」と言う

古事記では、条件。日本書紀のある書き方では、贈り物。
そして、出雲の人が書いた風土記では、出雲だけは譲っていない。

同じ話でも、だれが書くかで、こんなに変わる。
番外編で書いた、時代ごとに姿を変えるヲロチと、同じことが、ここでも起きていました。

読み比べて、僕が思ったことがあります。
どの本も、大国主を悪者にしていない。負けた側を、最大限にていねいに扱っている。

出雲は、自分たちの神さまの祀り方を、持ち続けることを許された。
そんなふうにも読めます。

王権と対立的な関係ではなく、王権神話の大筋から外れることもまたなかった島根県古代文化センター 佐藤雄一さん(出雲国風土記の国譲りについて)
ひろし

どっちも、敵にしてないんよね。

寄り道|「顕(あらわ)」と「幽(かくり)」の話

出雲大社の話でよく聞く、「目に見える世の中のことは天の神の子孫が治め、大国主は目に見えない神さまの世界を治める」という一行。

これは古事記ではなく、日本書紀の「一書」の第二にしか出てきません。
「顕露(あらわ)の事は皇孫(すめみま)が治め、私は退いて幽事(かくりごと)を治めよう」。日本書紀自身が「顕露」に「あらはに」(いまの「あらわに」)と読み方の注をつけています。

ここから「だから出雲大社は縁結び」と言われることもあります。
でも、縁結びが本にはじめて出てくるのは、いまのところ1685年。島根県立古代出雲歴史博物館は、正直にこう書いています。「出雲大社でなぜ縁結びとされるようになったのかは、よくわかりません」

天まで届く社の、柱は本当にあった

出雲大社には、昔の本殿は、いまよりずっと高かった、という言い伝えがあります。
高さ16丈、約48メートル。もっと昔は32丈、約96メートル。

と言われても、パッと想像しにくい高さです。
身近なものと、同じ縮尺で並べてみました。

高さくらべ。同じ縮尺で、いまの出雲大社本殿は約24m、宇迦橋の大鳥居は約23m、言い伝えの本殿は約48m(16丈)、出雲大社の国旗掲揚塔は47m、奈良の大仏殿は約49m、自由の女神は約93m、32階建てのマンションは約96m。1丈は約3mで、だいたいマンションの1階ぶん。16丈も32丈も言い伝えの高さで、古い図面に高さは書かれていない。
高さくらべ。いまの本殿は約24m。言い伝えの48mは奈良の大仏殿くらい、96mは自由の女神くらい。
寄り道|平安時代の「大きい建物ランキング」

平安時代、970年にまとめられた子ども向けの教科書『口遊(くちずさみ)』に、こんな言葉があります。
「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」。

大きな建物の順番で、1番が出雲の大社、2番が大和(奈良)の大仏殿、3番が京都の大極殿(だいごくでん)。
出雲大社は、この言葉を「大仏殿より大きかった」と書いてある証拠として紹介しています。

ただ、書いてあるのは順番だけで、高さの数字はありません。高さくらべと読むのは、後の時代の研究者の見方です。

正直、「大したことないやろ」と思っていました。
ちょっと高いところにある神社くらいのものを、大げさに言っているんだろう、と。

ところが、僕が知らなかっただけでした。
2000年の春、出雲大社の境内、八足門(やつあしもん)の前から、とんでもない柱が出てきていたんです。

資料で確かめたこと

直径1.3メートルほどの杉の丸太を、3本束ねて1本にした柱。束ねた太さは、約3メートル。
柱の穴は、最大で直径6メートル。人の頭ほどの石が、ぎっしり詰めてありました。

出雲大社境内から出土した宇豆柱の実物。杉の巨木が、石の上に立つ
古代出雲歴史博物館の宇豆柱(うづばしら)。3本の杉が、1本の柱になっている。

柱は、本殿の柱が立つ9か所のうち、3か所から見つかりました。
まんなかの心御柱(しんのみはしら)、正面の宇豆柱、そして南東の側柱。

古代出雲歴史博物館の模型。出雲大社の八足門の前で、宇豆柱・心御柱・南東側柱が見つかった場所
古代出雲歴史博物館(歴博)の模型。八足門の前の、柱が見つかった場所。

僕は、この宇豆柱の実物を、博物館で見ました。
でかい。3本の木を束ねた柱。

天にも届く社を建てた、という言い伝えを、「大したことない」と思っていた。でも、地面の中からは、とっくに嘘をつかない証拠が出ていた。
出てきたときは、そうとう盛り上がったやろうなぁ。

ひろし

ただの大げさな話や、なかったんや。

第2回で書いた言葉を、また使うことになりました。
遺跡は、嘘をつかない。

古代出雲歴史博物館の、平安時代の出雲大社本殿の10分の1模型。長い階段の先に高い社がある
歴博の、平安時代の本殿の10分の1模型。高さ48メートル、階段109メートルと伝わる姿。

歴博には、この背の高い模型のほかに、建築の研究者たちが考えた復元案が5つ、模型で並んでいます。
形も、高さも、案によってちがう。

古代出雲歴史博物館に並ぶ、出雲大社本殿の復元案の模型のひとつ(三浦正幸さんの案)
5つの復元案のひとつ(三浦正幸さんの案)。案によって、高さも形もちがう。

ここからは、慎重に。

資料で確かめたこと

分かっていること、まだ分からないこと

  • 出てきた柱は、鎌倉時代、1248年に建てられた本殿のものとみられています。炭素の年代、年輪、古文書の三つが、そこで重なりました。古代の柱では、ありません
  • 証明されたのは、3本束ねの柱が本当にあったこと。高さは、出ていません
  • 出雲大社に伝わる図面「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」に書いてあるのは、柱の太さ(約3メートル)と、長さ1町(約109メートル)の階段。高さは、書いてありません。48メートルという数字は、室町時代ごろの言い伝えです
  • 柱と図面が合っているかの言い方も、分かれています。博物館は「類似」、島根県は「ほぼ一致」、出雲大社は「そのままに」。同じ柱でも、立場によって、言い方がちがいます

柱は、本物だった。
高さは、まだ決着していない。

寄り道|僕はてっきり、レプリカだと思っていた

じつは僕、歴博の宇豆柱は、レプリカだと思い込んでいました。
本物は、守るために埋め戻した。歴博まつりで、そう聞いた気がしていたんです。

調べたら、ちがいました。
見つかった3か所のうち、南東の側柱は、現地で埋め戻した。宇豆柱と心御柱は取り上げて、宇豆柱は保存処理をして歴博に、心御柱は出雲大社の宝物殿、神祜殿(しんこでん)に。2010年に、国の重要文化財になっています。

では、南東の側柱は、なぜ取り上げなかったのか。
発掘の報告書を読むと、この柱の上には、江戸時代のはじめ(1609年)に建てた本殿の跡が重なっていました。その跡をなるべく残すために、柱のまわりは南半分だけ掘って、場所を確かめるところで止めています。

歴博の宇豆柱は、本物でした。
聞いた話は、たぶん、埋め戻したほうの柱のことだったんだと思います。

宇豆柱の名札。重要文化財、鎌倉時代(1248年)、出雲大社境内遺跡出土
宇豆柱の名札。「重要文化財 鎌倉時代(1248年)」とある。

そんなにすごかったものが、なぜ低くなったのか

柱を見ていて、逆に気になったことがあります。
そんなにすごかったものが、なぜ、いまの高さになったのか。

いまの本殿は、1744年に建てられたもので、高さは8丈、約24メートル。国宝です。
調べると、こういう流れでした。

出雲大社本殿の高さの移り変わり。言い伝えでは昔は16丈(約48m)、もっと昔は32丈(約96m)、ただし48mは室町時代ごろの言い伝え。平安から鎌倉に本殿が倒れた記録が5〜6回で、それだけ大きな社だったと考えられている。1110年に稲佐の浜へ長さ30mあまりの巨木が約100本流れ着き、その木で建て直した寄木の造営。1248年は3本束ねの柱の本殿で、その柱が2000年に出てきた。1609年に掘立柱から礎石の上に立てる造りへ、高さ約20m。1667年に8丈の本殿が約400年ぶりに戻り、1744年にいまの本殿、高さ約24m、国宝。各段に水彩の小さな絵つき
本殿の高さの移り変わり。倒れて、建て直して、また建てた。

資料で確かめたこと

平安時代から鎌倉時代にかけて、本殿が倒れた記録が、5〜6回あります。何度も倒れるほど、大きかったと考えられています。

1110年には、稲佐の浜に、長さ30メートルあまりの巨木が、100本ほど流れ着いた。
その木で、本殿を建て直しました。「寄木(よりき)の造営」と呼ばれています。

ひろし

30メートルの木が、100本、浜に流れ着くって。

中世になると、造営が苦しくなり、小さめの本殿が続きます。
1609年には、柱を地面に埋める造りから、石の上に立てる造りに変わりました。高さは約20メートル。

1667年、幕府の寄付で、約400年ぶりに、8丈(約24メートル)の本殿が戻ってくる。
そして1744年に、いまの本殿。

倒れて、建て直して、また倒れて。それでも、建て続けた。
高さより、そっちのほうが、すごいのかもしれません。

しめ縄は、でかい

出雲大社といえば、神楽殿の大しめ縄。
はじめて来たとき、「でかー」と思ったのを覚えています。

2015年の出雲大社の神楽殿と、前の大しめ縄
2026年9月の出雲大社の神楽殿と、架け替えられた新しい大しめ縄
上が2015年、下が今年の9月。ほぼ同じ場所から撮っていた。しめ縄が、新しくなっている。

資料で確かめたこと

2026年の7月21日、8年ぶりに架け替えられたばかりです。長さ13.5メートル、重さ4.7トン。1981年(昭和56年)に神楽殿ができてから、8本目。

作っているのは、島根県飯南町(いいなんちょう)の大しめなわ創作館。
専用の田んぼで稲を育てて、1年以上かけて作るそうです。

大しめ縄をなう作業場の水彩画。重機で吊った太い藁の縄を、たくさんの人が手で整えている
大しめ縄をなう。重機を使っても、たくさんの人の手がいる。

重機で吊り上げながら、人の手で編んでいく動画を見ました。
重機を使っても、こんなに手間と時間と人手がかかるのか、と驚きました。

新しい大しめ縄を真下から見上げる
新しい大しめ縄を、真下から。
2015年、前の大しめ縄をほぼ同じ角度から見上げる
2015年。前のしめ縄を、ほぼ同じ角度から。

前のしめ縄には、お金が刺さっていました。
下から小銭を投げ上げて、刺さると縁起がいい、と言われていたんです。

はじめて来たときは網もなかった、と思い込んでいました。
でも、2015年の写真を見返すと、そのころから網はかかっている。網があっても、めちゃくちゃ刺さっていたんです。

新しいしめ縄には、刺さっていません。

大しめ縄の房の切り口。藁の束がぎっしり詰まっている
新しいしめ縄の、房の切り口。藁が、ぎっしり。

出雲大社の説明を読むと、はっきり書いてありました。

資料で確かめたこと

その神聖な注連縄にお賽銭を投げ入れるという行為は、神様に対して失礼にあたることです。従って縁起が良いことではありません出雲大社 公式サイト「よくあるご質問」より

ついでに、5円で「ご縁」も、銅の鳥居をさわると金運も、公式は「まったく根拠のない」「創作です」と書いています。

どこかで、「お金が刺さると、ただでさえ重いしめ縄が、どんどん重くなって危ない」という案内を見た気もします。
お金のない、きれいなしめ縄。こっちのほうが、気持ちがいいです。

寄り道|しめ縄の向きが、ほかの神社と逆

出雲大社のしめ縄は、ふつうの神社と、張る向きが逆だと言われます。

出雲大社は、これを否定していません。理由を説明しています。
古く出雲大社では、ふつうの神社とは反対に、向かって左を上位、右を下位とする習わしがあった。だから、上位の左を綯い始め(ないはじめ)にして張る。根拠として、本殿の中の神さまの並びと、江戸時代のお供えの作法を挙げています。

「朝廷への反抗の名残」という話もありますが、そう裏付ける資料は見つかりませんでした。

神さまは、西を向いている

資料で確かめたこと

出雲大社の本殿は、南を向いて建っています。でも、中におられる大国主の御神座(ごしんざ)は、西を向いている。

だから、正面の八足門からお参りすると、神さまの横顔に向かって拝むことになる。
本殿の西側には、神さまと向き合ってお参りできる場所もあります。

僕はこの話を、どこかで聞いて知りました。
そのとき思ったのは、「じゃあ、ほかの神さまは、どっちを向いてるんやろう」。

調べてみました。

資料で確かめたこと

本殿の中には、大国主のほかに、5柱の神さま、客座五神(きゃくざごしん)も祀られています。心御柱の近くには、大国主の子の神さま、和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)も。
出雲大社が公開している本殿の中の図を見ると、客座五神は、正面の南を向いて描かれている。大国主は、正面ではなく、西を向いているんです。

ふつうの神社では、神さまは正面を向いているのが当たり前です。
横を向いているのは、出雲大社の本殿のつくり、大社造(たいしゃづくり)の特徴なんです。

本殿の中の神さまの向き(上から見た略図)。9本の柱のまんなかが心御柱。北東の間に大国主の御神座があり、西を向いている。北西の間の北側に客座五神がならび、南(正面)を向いている。南の正面(八足門・拝殿)から拝むと、大国主の横顔に向かって拝むことになる。西側の拝所からは正面に向き合う。大国主は、正面ではなく西を向いている。出雲大社の公式サイトの平面図をもとに作図
本殿の中の、神さまの向き。大国主は、西を向いている。

西には、稲佐の浜があります。
でも、なぜ西なのかは、はっきり分かっていません。

出雲大社の説明は、本殿の中の間取りがそうなっているから、というものです。
なぜそういう間取りにしたのかまでは、やっぱり分かりません。

出雲大社本殿の屋根と、空に突き出た千木
本殿の屋根。千木(ちぎ)が、空に突き出ている。
ひろし

屋根の上のバッテン、でっけーなー。

寄り道|屋根の上のバッテン、ほかの神社とどうちがう?

屋根の上で交差している2本の木が、千木です。出雲大社の本殿の千木は、長さ7.9メートルあります。

先の切り口が縦になっている「外削ぎ(そとそぎ)」。そして、屋根の上に別の木をのせた「置千木(おきちぎ)」です。
伊勢神宮のように、屋根の端の板がそのまま伸びて千木になる形とは、つくりがちがいます。

屋根の上に横に並ぶ丸太は、勝男木(かつおぎ)。出雲大社は3本です。
伊勢神宮は、内宮が10本、外宮が9本あります。

「千木の先が縦なら男の神さま、横なら女の神さま」という話も、よく聞きます。
ただ、辞典でも「例外もある」という扱いで、決まりではないようです。

寄り道|正面を向いていない神さまは、ほかにもいる

横を向いている神さまは、出雲大社だけではありません。

国譲りで、剣の切っ先に座ったタケミカヅチ。
この神さまを祀る鹿島神宮(かしまじんぐう・茨城)は、本殿が北を向いています。でも、中の神座は奥の南西のすみにあって、東を向いていると言われます。参拝する人とは、向き合わない。中は昔から開けない場所なので「と言われている」までですが、出雲大社との関係を指摘する研究者もいます。

松江の神魂神社(かもすじんじゃ)。いま残っている大社造の本殿では、いちばん古い国宝です。
ここも、神座は横向き。ただし、出雲大社とは左右が反対です。

大社造の中のつくりには、ふた通りあります。
神座が右の奥にあって左を向く「男造(おづくり)」と、左の奥にあって右を向く「女造(めづくり)」。出雲大社は男造、神魂神社は女造です。

大社造の中は、ふた通り(上から見た略図・下が正面)。男造(おづくり)は御神座が右奥にあって左を向く=出雲大社・大国主(男の神さま)・屋根の千木は先が縦。女造(めづくり)は御神座が左奥にあって右を向く=松江の神魂神社・イザナミ(女の神さま)・千木は先が横。どちらも入口の階段は正面の右。男造は男の神さま、女造は女の神さまの社に多いとされるが、決まりではない
大社造の中は、ふた通り。出雲大社は男造、神魂神社は女造。

男造は男の神さま、女造は女の神さまの社に多い、とされます。
出雲大社は、大国主。神魂神社は、女の神さまのイザナミが中心です(夫のイザナギも一緒に祀られています)。ひとつ前の寄り道の千木も、出雲大社は先が縦の「男千木(おちぎ)」、神魂神社は先が横の「女千木(めちぎ)」。ここでは、きれいにそろっています。

ただ、どちらも「多い」という話で、決まりではありません。
大社造でも、正面を向いている神社があります。

そもそも、神主が中に入ってお祀りする形の本殿では、昔の宮殿にならって、建物を横向きに使うことが多い、という研究者の説明もあります。

出雲大社の西向きは、「大国主を拝ませないため」と説明されることがあります。
でも、国を譲らせた側のタケミカヅチも、横を向いている。それだけでは、説明がつかないんです。

瑞垣の外から見た、出雲大社本殿とまわりの社の屋根
瑞垣(みずがき)の外から。本殿と、まわりのお社の屋根が並ぶ。

素鵞社の行列と、稲佐の浜の砂

今年の9月、久しぶりに家族で出雲大社に行きました。
大学時代の友だちの家族も、一緒です。

大社に近づいたとたん、それまで空いていた道が、急に渋滞しました。
人が、めちゃくちゃ多い。地元の人より、県外から来ている人のほうが多かったと思います。数年前から、急に増えた気がします。

子どもたちは、建物より、自然に夢中でした。
松ぼっくり、大きな木、彼岸花。子どもが自分のカメラで彼岸花を撮っている姿が可愛くて、僕はその姿と彼岸花を撮りました。

出雲大社の境内で、子どもが自分のカメラで彼岸花を撮っている後ろ姿。木の根元に赤い彼岸花
芝生にしゃがんで、子どもが自分のカメラで目の前の彼岸花を撮っている後ろ姿
自分のカメラで、彼岸花を撮る。ひとりは立って、ひとりはしゃがんで。

いちばん驚いたのは、本殿の裏手、素鵞社(そがのやしろ)です。
スサノヲを祀るお社に、大行列ができていました。

素鵞社の屋根。出雲大社本殿の裏、八雲山のふもとにあるスサノヲの社
素鵞社。本殿の裏、八雲山(やくもやま)のふもとにある、スサノヲのお社。

何事かと思ったら、少し前にインスタで見た「砂」でした。

資料で確かめたこと

稲佐の浜で砂をとってきて、素鵞社に納め、そこにある御砂(おすな)をいただいて帰る。出雲大社の説明では、「ただいただいて帰るだけではいけません」。先に、置く。それから、いただく。

素鵞社の砂の作法。稲佐の浜で砂を袋に少し入れて持っていく。本殿の裏の素鵞社で、持ってきた砂を社の砂箱に納める。納めたあとで、そこにある御砂を少しいただいて帰る。出雲大社は、ただいただいて帰るだけではいけません、と書いている。各段に水彩の小さな絵つき
素鵞社の、砂の作法。先に置いて、それからいただく。
2026年9月の素鵞社。社へ上がる石段に、お参りの人の列が続いている(後ろ姿)
2026年9月の素鵞社。社へ上がる石段まで、人の列が続いていた。

行列の手前には、大きめの箱のようなものがあって、「お急ぎの方はこちら」と書いてありました。

びっくりしたし、それでええんや、と思いました。

前によく来ていたころは、行列なんてありませんでした。素鵞社の裏手をぐるっと回るのも、ふつう。
妻と来たとき、裏の岩に触ったのを覚えています。

人の流れに合わせて、お参りのかたちも変わっていく。
それも、時代ごとに姿を変えるヲロチの話と、どこか似ています。

今回は行列を見ただけで、並ばずに帰りました。

稲佐の浜:感じるのが先、知るのはあと

稲佐の浜にはじめて行ったのは、偶然でした。

バイクでひとり、出雲大社を通り過ぎて、そのまま海のほうへ走った。
ちょうど、夕日の時間でした。

夕日の稲佐の浜。波打ち際の岩の上に小さな鳥居と社。浜沿いの道に黒いバイクが止まり、ヘルメットを持った人が後ろ姿で岩をながめている。水彩画
夕日の稲佐の浜。岩の上の、小さな鳥居。

浜に、変な岩がある。その上に、小さな鳥居。
鳥居があるだけで、ただの岩が、まったくちがうものに見えた。

何なんだこれ? どういうこと?
なんか、ありそうやな。そう思って、バイクを止めて写真を撮りました。

あとから知りました。
ここが、タケミカヅチが剣を立てた、国譲りの浜とされる場所だということを。

古事記などに書いてあること

古事記では伊耶佐(いざさ)の小浜、日本書紀では五十田狭(いたさ)の小汀(おばま)、出雲国風土記では伊奈佐(いなさ)の社。音は近くて、字は少しずつ変わっていった。

岩は、弁天島(べんてんじま)。
旧暦の10月、全国の神さまが出雲に集まるとされる神在月(かみありづき)には、この浜で神さまを迎える神事が行われます。今年は、11月18日の夜7時。

神在月の夜の稲佐の浜。かがり火が燃え、白い装束の神職が海のほうを向いて並び、たくさんの人が後ろから見守る。すぐ向こうの波打ち際に、上に鳥居と社のある大きな岩(弁天島)。岩のふもとに小さな賽銭箱。水彩画
神在月の夜、稲佐の浜で、海から来る神さまを迎える。

弁天島は、昔より近くなりました。
砂浜が広がって、いまは浜から歩いてすぐのところにあります。僕がはじめて来たときにはなかった賽銭箱も、いまは弁天島のところに置いてある。

感じるのが先で、知るのはあと。
知ってから行くと、また、ちがって見える。それで、何度も通うようになりました。いまは、子どもとも行きます。

ただ、土地から受け取る「なんかある」という感覚と、人が語り継いできた神話を、同じものだとは思っていません。
どちらも、大事にしたい。それだけです。

寄り道|神在月は、いつから?

資料で確かめたこと

古事記にも、日本書紀にも、出雲国風土記にも、神さまが出雲に集まる話は出てきません。

島根県古代文化センターによると、いまのところいちばん古いのは、平安時代の終わりごろ、12世紀半ばの『奥義抄(おうぎしょう)』や『和歌童蒙抄(わかどうもうしょう)』。
ただ、995年の貴族の日記『権記(ごんき)』には、出雲国が「熊野と杵築の神の祭りがあるので、政務を止めている」と報告した記録があります。

ちなみに弁天島の神さまは、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)。
出雲観光協会のサイトでは、これまで「豊玉毘古命(とよたまびこのみこと)」と書かれていましたが、2025年、参考にした文献に誤記があったとして、直されました。公的なサイトでも、こういうことがある。

SRを届けてくれた友だち

9月に一緒に行ったのは、大学の寮で出会った友だちです。

卒業してから1年くらい、一緒に暮らしたこともあります。

僕が島根に移るとき、乗っていたSR400を運べなくて、富山の彼の家に預けました。
そうしたら、あとで彼が、そのSRに乗って、富山から島根まで届けてくれた。

日本海沿いの道を走る黒いクラシックなバイクを、後ろから描いた水彩画。預けたバイクを友だちが富山から島根まで走らせてきてくれた
富山から島根へ。預けたバイクを、友だちが走らせてきてくれた。

着いたとたん、「SRで高速長距離は、もういいや」。
腕が、パンパンだったそうです。

SRは、400ccの単気筒。
下道をトコトコ走る分には、ドコドコという振動が最高なんです。でも高速道路に乗ると、そのドコドコが高い回転で「ビーン!」と、細かくて速い振動に変わる。

僕も高速で2〜3時間乗ったことがありますが、手はしびれるし、風がもろに体に当たってきつい。
SRは高速道路には向いてないな、と思いました。

ひろし

下道なら、最高なんやけどな。

毎年、梨を送ってくれます。その前は、2020年に生のライチ、2021年に宮崎のマンゴー。
僕は、知り合いのシャインマスカットを送り返す。ちゃんと考えたことなかったけど、わりと世話になっています。

2021年の夏に友だちが送ってくれた、宮崎県産マンゴーの黒い箱
2021年の夏、彼が送ってくれた宮崎のマンゴー。

長男がマンゴーを大好きになったのは、このマンゴーがきっかけです。
そこから生まれたのが、長男のお話の絵本「マンゴーたろう」でした。

生のライチが届いたのは、2020年の一度きり。
粒が大きくて、輸入のライチのようなくさみが、まったくない。上の子(長男)は、そのときはじめてライチを口にして、ものすごい勢いで食べていました。

木箱に並んだ、赤黒い皮の粒の大きな生のライチと、皮をむいた白い実ひとつ。水彩画
粒が大きくて、くさみのない、生のライチ。

下の子は、そのライチを食べていません。
だから今回、彼が来たら「またライチ送って」とお願いするんだと、ずっと張り切っていました。でも、なかなか自分からは言い出せない。帰る直前に、一緒にお願いしました。

ひろし

下の子は、宮崎のマンゴーも食べたと思い込んでます。上の子が好きでよく買う、アップルマンゴーのことやと思う。

宮崎のマンゴーも、品種はアップルマンゴー(アーウィン)が中心。
まるっきりの勘違いでも、ないんですけどね。

今年の9月の連休、その彼が、家族でキャンピングカーに乗って遊びに来てくれました。
その翌日に、一緒に出雲大社へ。

奥さんが神話好きで、宮崎の高千穂(たかちほ)にある天岩戸(あまのいわと)にも行ったことがあるそうです。
アマテラスが隠れた、岩屋の話。

国譲りのあと、古事記の話は、天の神の孫ニニギが地上に降りる「天孫降臨(てんそんこうりん)」へ続きます。
降りた場所は、日向(ひむか)の高千穂。いまの宮崎のあたりとされる場所です。

天孫降臨の場面。明け方の空、雲の切れ間から光の筋がさし、古代の装束の一行が雲の上から降りてくる。下には霧のかかった山々の峰。水彩画
天孫降臨。天の神の孫が、雲をかき分けて、高千穂の峰へ降りてくる。

出雲は、国を譲った側。高千穂は、譲られた側が降りてきた場所。
国譲りの次の章の舞台を歩いたことのある人と、国譲りの社にお参りする。古事記の流れを、ちょうど反対からなぞったような一日でした。

ひろし

古事記を、逆から歩いた日。

僕の見立て:譲った側を、いちばん大きく祀った

国譲りは、負けた話のはずです。

でも、読み比べると、どの本も大国主を悪者にしていない。
条件をのむ。贈り物をする。出雲だけは残す。言い方はちがっても、譲った側を、いちばんていねいに扱っている。

そして、いちばん大きな家。
地の底の岩に柱を立て、空に届くほど高く。言い伝えだと思っていた話を、地面の中の柱が、半分だけ本当にした。

僕の見立て。古事記も日本書紀も風土記も、譲った大国主を悪者にせずていねいに扱っている。天まで届くと言われた社の柱は本物だった。目に見えることは天の神の子孫が、目に見えないことは大国主が治め、治める場所を分けた。しめ縄の張り方も四拍手も西向きの神さまも、出雲大社ならではのやり方で続いている。敵を作らない。いちばん古い歴史の本も、そう書いていた。各段に水彩の小さな絵つき
僕の見立て。譲った側を、いちばん大きく祀った。

敵を作らない。
いちばん古い歴史の本が、すでに、そういう書き方をしていた。このブログで僕がやりたいことと、同じでした。

正解は、ひとつじゃない。
これは、僕の見立てです。

今日の一曲

竹内まりやで、「縁の糸」(えにしのいと)。
2008年の朝ドラ「だんだん」の主題歌です。

「だんだん」は、松江育ちの女の子と、京都の舞妓が、出雲大社で出会うところから始まる双子の物語でした。
語り(ナレーション)も、竹内まりやさんです。

竹内まりやさんの実家は、出雲大社のすぐ近くの旅館です。
島根県の広報誌では、出雲大社を、自分が生まれた土地の神社、産土神社(うぶすなじんじゃ)として紹介しています。実家から歩いて1分。出雲に帰ってお参りするたびに、ここが自分の産土神社であることの幸せを、深く感じるそうです。

同じ文章には、こんなことも書いてありました。
お参りのあとは、亡くなったお父さんのやり方にならって、本殿のまわりを一周する。本殿の真後ろの素鵞社へ向かう、その道こそが、お父さんとの思い出のつまった「心の聖地」なのだ、と。

9月に僕たちが見た、あの行列の素鵞社です。

縁の糸、という題名。
縁結びと言われる出雲大社にも、この記事に出てきた友だちの話にも、つながる言葉です。

曲の終わりのほうに、こんな2行があります。

たとえ糸が もつれ合っても 結び直せばまた会える
私たちの 果てない夢は ずっと永遠に続くから

竹内まりや「縁の糸」(作詞・作曲 竹内まりや)より

国譲りも、古事記では、もめた話です。
タケミナカタは力くらべに負けて、諏訪まで逃げました。でも、どの本も、譲った大国主を悪者にしなかった。いちばん大きな家を建てて、縁を結び直したんだと思います。

大しめ縄も、何年かに一度、新しくなって掛け直されます。
大学の寮で出会った友だちとも、何年たっても、こうしてまた会える。縁の糸は、切れないんですね。

歌詞の全文は、Uta-Netで読めます。

竹内まりやさんの公式チャンネルに、ミュージックビデオがあります。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、おやすみなさい。