譲った神さまの、いちばん大きな家|古事記を紐解く④ 出雲大社と国譲り
こんばんは、ひろしです。
古事記を紐解くシリーズ、第4回は出雲大社です。
― ざっくり言うと ―
国譲りは、大国主(おおくにぬし)が国を天の神の子孫に譲る話。そのかわりに求めたのが、天まで届くような住まいでした。
でも、古事記・日本書紀・出雲国風土記(いずものくにふどき)で、話はけっこうちがう。出雲だけは譲っていない本もある。
そして、ただの言い伝えだと思っていた「高い社」の柱は、2000年、地面の中から本当に出てきた。
― この記事について ―
いつもどおり、古事記などに書いてあること 資料で確かめたこと 僕の見立て は、分けて書きます。
途中の「寄り道」は、たたんであります。気になったところだけ、開いてください。
はじめての出雲大社
はじめて出雲大社に行ったのは、2015年の秋です。
まだ富山に住んでいたころ。島根のワイナリーを見学する、1泊2日の旅の2日目でした。
たまたま近くに嫁いで来ていた妹と、当時まだ2歳だった甥っ子と、一緒にお参りしました。
正直に言うと、神社に特別くわしいわけでも、好きなわけでもありません。
ただ、こんなに大きな神社に来たのは、はじめてでした。
鳥居をくぐってから、ずっと歩く。参拝って、行くまでがこんなに長いのか、と思いました。

そのとき、妹が教えてくれました。
出雲大社のお参りは、二礼四拍手一礼。手を打つのが、ふつうの神社の倍なんです。
寄り道|なぜ、四拍手なのか
出雲大社の説明では、5月14日の例祭では8回手を打つ。8は、限りないことを表す数。ふだんは、その半分の4回。
では、いつから四拍手なのか。そこは、はっきりしていません。出雲大社の説明にも、始まった時期は書かれていない。
ちなみに神社本庁も、二礼二拍手一礼を基本としつつ、「神社によっては特殊な拝礼方法を行っているところもあります」と書いています。

そのとき撮ったスナップが、良かったんです。
そのあと、島根に移ることが決まったとき、まっさきに思いました。
「これで休みの日、毎週、出雲大社に写真撮りに行けるやん」
実際には休日はほとんど食材探しや仕入れに行っていたので、毎週とはいきませんでした。
それでも、ときどき通っています。
写真好きの、わりと不純な動機です。
国譲りって、どんな話?
出雲大社は、古事記の「国譲り」の話につながる神社です。まず、あらすじから。
古事記に書いてあること
地上の国を造ったのは、大国主という神さま。
そこへ、天の上の高天原(たかまがはら)から、「この国は、天の神の子孫が治めるべきだ」と、使者がやってきます。
何度目かの使者、タケミカヅチは、出雲の伊耶佐(いざさ)の小浜に降り立ちました。
剣を抜いて、切っ先を上にして波の上に立て、その切っ先に、あぐらをかいて座る。そして大国主に問います。「この国を、譲るか」

大国主は、「息子のコトシロヌシが答えます」と言う。
美保の岬で釣りをしていたコトシロヌシは、承知して、青柴垣(あおふしがき)の中に隠れました。
もうひとりの息子、タケミナカタは、大きな岩を手の先にのせて現れ、力くらべを挑みます。
でも負けて、信濃の諏訪(すわ)の湖まで逃げ、「ここから出ない」と誓いました。
最後に大国主が出した条件が、これです。
そして、出雲の多芸志(たぎし)の小浜に、天の御舎(みあらか)が造られた。

負けた側の話のはずなのに、譲った側が、いちばん大きな家に住む。
ちょっと、不思議です。
寄り道|「出雲大社」という名前は、出てこない
古事記の条件は、「僕(あ)が住所(すみか)」。造った場所は「多芸志の小浜」。
社の名前も、杵築(きづき)という地名も、書かれていません。これを出雲大社の始まりと結びつけているのは、出雲大社や日本遺産などの説明、つまり、のちの解釈です。
古代の名前は、杵築大社(きづきのおおやしろ)。出雲大社になったのは、1871年(明治4年)です。
ふだんは「いづもたいしゃ」。正式には「いづもおおやしろ」と読みます。
出雲国風土記には、杵築という地名の由来が書いてあります。大国主の宮を造るために、神々が集まり、杵(きね)で突き固めて築いた。だから、きづき。
そして日本書紀には、659年に「出雲国造(いずものくにのみやつこ)に命(おほ)せて、神の宮を修厳(つくりよそ)はしむ」とある。この「神の宮」が出雲大社のことなら、7世紀には、もう社殿があったことになります。
三つの本で、話がちがう
国譲りの話は、古事記だけのものではありません。
日本書紀にも、出雲国風土記にも出てくる。そして、読み比べると、話がけっこうちがうんです。

読み比べると
- 古事記(712年):大国主が条件を出す。「住まいを立派に造ってくれるなら」
- 日本書紀・本文(720年):宮の話は、出てこない。大国主は矛を渡して、隠れるだけ
- 日本書紀・一書(あるふみ):天の神の側から、「あなたの住む宮を造りましょう。柱は高く太く、板は広く厚く」と申し出る。条件ではなく、贈り物
- 出雲国風土記(733年):使者も、力くらべも、出てこない。大国主が自分から「国は譲る。ただし、八雲立つ(やくもたつ)出雲の国は、私が静まる国」と言う
古事記では、条件。日本書紀のある書き方では、贈り物。
そして、出雲の人が書いた風土記では、出雲だけは譲っていない。
同じ話でも、だれが書くかで、こんなに変わる。
番外編で書いた、時代ごとに姿を変えるヲロチと、同じことが、ここでも起きていました。
読み比べて、僕が思ったことがあります。
どの本も、大国主を悪者にしていない。負けた側を、最大限にていねいに扱っている。
出雲は、自分たちの神さまの祀り方を、持ち続けることを許された。
そんなふうにも読めます。
どっちも、敵にしてないんよね。
寄り道|「顕(あらわ)」と「幽(かくり)」の話
出雲大社の話でよく聞く、「目に見える世の中のことは天の神の子孫が治め、大国主は目に見えない神さまの世界を治める」という一行。
これは古事記ではなく、日本書紀の「一書」の第二にしか出てきません。
「顕露(あらわ)の事は皇孫(すめみま)が治め、私は退いて幽事(かくりごと)を治めよう」。日本書紀自身が「顕露」に「あらはに」(いまの「あらわに」)と読み方の注をつけています。
ここから「だから出雲大社は縁結び」と言われることもあります。
でも、縁結びが本にはじめて出てくるのは、いまのところ1685年。島根県立古代出雲歴史博物館は、正直にこう書いています。「出雲大社でなぜ縁結びとされるようになったのかは、よくわかりません」
天まで届く社の、柱は本当にあった
出雲大社には、昔の本殿は、いまよりずっと高かった、という言い伝えがあります。
高さ16丈、約48メートル。もっと昔は32丈、約96メートル。
と言われても、パッと想像しにくい高さです。
身近なものと、同じ縮尺で並べてみました。

寄り道|平安時代の「大きい建物ランキング」
平安時代、970年にまとめられた子ども向けの教科書『口遊(くちずさみ)』に、こんな言葉があります。
「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」。
大きな建物の順番で、1番が出雲の大社、2番が大和(奈良)の大仏殿、3番が京都の大極殿(だいごくでん)。
出雲大社は、この言葉を「大仏殿より大きかった」と書いてある証拠として紹介しています。
ただ、書いてあるのは順番だけで、高さの数字はありません。高さくらべと読むのは、後の時代の研究者の見方です。
正直、「大したことないやろ」と思っていました。
ちょっと高いところにある神社くらいのものを、大げさに言っているんだろう、と。
ところが、僕が知らなかっただけでした。
2000年の春、出雲大社の境内、八足門(やつあしもん)の前から、とんでもない柱が出てきていたんです。
資料で確かめたこと
直径1.3メートルほどの杉の丸太を、3本束ねて1本にした柱。束ねた太さは、約3メートル。
柱の穴は、最大で直径6メートル。人の頭ほどの石が、ぎっしり詰めてありました。

柱は、本殿の柱が立つ9か所のうち、3か所から見つかりました。
まんなかの心御柱(しんのみはしら)、正面の宇豆柱、そして南東の側柱。

僕は、この宇豆柱の実物を、博物館で見ました。
でかい。3本の木を束ねた柱。
天にも届く社を建てた、という言い伝えを、「大したことない」と思っていた。でも、地面の中からは、とっくに嘘をつかない証拠が出ていた。
出てきたときは、そうとう盛り上がったやろうなぁ。
ただの大げさな話や、なかったんや。
第2回で書いた言葉を、また使うことになりました。
遺跡は、嘘をつかない。

歴博には、この背の高い模型のほかに、建築の研究者たちが考えた復元案が5つ、模型で並んでいます。
形も、高さも、案によってちがう。

ここからは、慎重に。
資料で確かめたこと
分かっていること、まだ分からないこと
- 出てきた柱は、鎌倉時代、1248年に建てられた本殿のものとみられています。炭素の年代、年輪、古文書の三つが、そこで重なりました。古代の柱では、ありません
- 証明されたのは、3本束ねの柱が本当にあったこと。高さは、出ていません
- 出雲大社に伝わる図面「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」に書いてあるのは、柱の太さ(約3メートル)と、長さ1町(約109メートル)の階段。高さは、書いてありません。48メートルという数字は、室町時代ごろの言い伝えです
- 柱と図面が合っているかの言い方も、分かれています。博物館は「類似」、島根県は「ほぼ一致」、出雲大社は「そのままに」。同じ柱でも、立場によって、言い方がちがいます
柱は、本物だった。
高さは、まだ決着していない。
寄り道|僕はてっきり、レプリカだと思っていた
じつは僕、歴博の宇豆柱は、レプリカだと思い込んでいました。
本物は、守るために埋め戻した。歴博まつりで、そう聞いた気がしていたんです。
調べたら、ちがいました。
見つかった3か所のうち、南東の側柱は、現地で埋め戻した。宇豆柱と心御柱は取り上げて、宇豆柱は保存処理をして歴博に、心御柱は出雲大社の宝物殿、神祜殿(しんこでん)に。2010年に、国の重要文化財になっています。
では、南東の側柱は、なぜ取り上げなかったのか。
発掘の報告書を読むと、この柱の上には、江戸時代のはじめ(1609年)に建てた本殿の跡が重なっていました。その跡をなるべく残すために、柱のまわりは南半分だけ掘って、場所を確かめるところで止めています。
歴博の宇豆柱は、本物でした。
聞いた話は、たぶん、埋め戻したほうの柱のことだったんだと思います。

そんなにすごかったものが、なぜ低くなったのか
柱を見ていて、逆に気になったことがあります。
そんなにすごかったものが、なぜ、いまの高さになったのか。
いまの本殿は、1744年に建てられたもので、高さは8丈、約24メートル。国宝です。
調べると、こういう流れでした。

資料で確かめたこと
平安時代から鎌倉時代にかけて、本殿が倒れた記録が、5〜6回あります。何度も倒れるほど、大きかったと考えられています。
1110年には、稲佐の浜に、長さ30メートルあまりの巨木が、100本ほど流れ着いた。
その木で、本殿を建て直しました。「寄木(よりき)の造営」と呼ばれています。
30メートルの木が、100本、浜に流れ着くって。
中世になると、造営が苦しくなり、小さめの本殿が続きます。
1609年には、柱を地面に埋める造りから、石の上に立てる造りに変わりました。高さは約20メートル。
1667年、幕府の寄付で、約400年ぶりに、8丈(約24メートル)の本殿が戻ってくる。
そして1744年に、いまの本殿。
倒れて、建て直して、また倒れて。それでも、建て続けた。
高さより、そっちのほうが、すごいのかもしれません。
しめ縄は、でかい
出雲大社といえば、神楽殿の大しめ縄。
はじめて来たとき、「でかー」と思ったのを覚えています。


資料で確かめたこと
2026年の7月21日、8年ぶりに架け替えられたばかりです。長さ13.5メートル、重さ4.7トン。1981年(昭和56年)に神楽殿ができてから、8本目。
作っているのは、島根県飯南町(いいなんちょう)の大しめなわ創作館。
専用の田んぼで稲を育てて、1年以上かけて作るそうです。

重機で吊り上げながら、人の手で編んでいく動画を見ました。
重機を使っても、こんなに手間と時間と人手がかかるのか、と驚きました。


前のしめ縄には、お金が刺さっていました。
下から小銭を投げ上げて、刺さると縁起がいい、と言われていたんです。
はじめて来たときは網もなかった、と思い込んでいました。
でも、2015年の写真を見返すと、そのころから網はかかっている。網があっても、めちゃくちゃ刺さっていたんです。
新しいしめ縄には、刺さっていません。

出雲大社の説明を読むと、はっきり書いてありました。
資料で確かめたこと
ついでに、5円で「ご縁」も、銅の鳥居をさわると金運も、公式は「まったく根拠のない」「創作です」と書いています。
どこかで、「お金が刺さると、ただでさえ重いしめ縄が、どんどん重くなって危ない」という案内を見た気もします。
お金のない、きれいなしめ縄。こっちのほうが、気持ちがいいです。
寄り道|しめ縄の向きが、ほかの神社と逆
出雲大社のしめ縄は、ふつうの神社と、張る向きが逆だと言われます。
出雲大社は、これを否定していません。理由を説明しています。
古く出雲大社では、ふつうの神社とは反対に、向かって左を上位、右を下位とする習わしがあった。だから、上位の左を綯い始め(ないはじめ)にして張る。根拠として、本殿の中の神さまの並びと、江戸時代のお供えの作法を挙げています。
「朝廷への反抗の名残」という話もありますが、そう裏付ける資料は見つかりませんでした。
神さまは、西を向いている
資料で確かめたこと
出雲大社の本殿は、南を向いて建っています。でも、中におられる大国主の御神座(ごしんざ)は、西を向いている。
だから、正面の八足門からお参りすると、神さまの横顔に向かって拝むことになる。
本殿の西側には、神さまと向き合ってお参りできる場所もあります。
僕はこの話を、どこかで聞いて知りました。
そのとき思ったのは、「じゃあ、ほかの神さまは、どっちを向いてるんやろう」。
調べてみました。
資料で確かめたこと
本殿の中には、大国主のほかに、5柱の神さま、客座五神(きゃくざごしん)も祀られています。心御柱の近くには、大国主の子の神さま、和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)も。
出雲大社が公開している本殿の中の図を見ると、客座五神は、正面の南を向いて描かれている。大国主は、正面ではなく、西を向いているんです。
ふつうの神社では、神さまは正面を向いているのが当たり前です。
横を向いているのは、出雲大社の本殿のつくり、大社造(たいしゃづくり)の特徴なんです。

西には、稲佐の浜があります。
でも、なぜ西なのかは、はっきり分かっていません。
出雲大社の説明は、本殿の中の間取りがそうなっているから、というものです。
なぜそういう間取りにしたのかまでは、やっぱり分かりません。

屋根の上のバッテン、でっけーなー。
寄り道|屋根の上のバッテン、ほかの神社とどうちがう?
屋根の上で交差している2本の木が、千木です。出雲大社の本殿の千木は、長さ7.9メートルあります。
先の切り口が縦になっている「外削ぎ(そとそぎ)」。そして、屋根の上に別の木をのせた「置千木(おきちぎ)」です。
伊勢神宮のように、屋根の端の板がそのまま伸びて千木になる形とは、つくりがちがいます。
屋根の上に横に並ぶ丸太は、勝男木(かつおぎ)。出雲大社は3本です。
伊勢神宮は、内宮が10本、外宮が9本あります。
「千木の先が縦なら男の神さま、横なら女の神さま」という話も、よく聞きます。
ただ、辞典でも「例外もある」という扱いで、決まりではないようです。
寄り道|正面を向いていない神さまは、ほかにもいる
横を向いている神さまは、出雲大社だけではありません。
国譲りで、剣の切っ先に座ったタケミカヅチ。
この神さまを祀る鹿島神宮(かしまじんぐう・茨城)は、本殿が北を向いています。でも、中の神座は奥の南西のすみにあって、東を向いていると言われます。参拝する人とは、向き合わない。中は昔から開けない場所なので「と言われている」までですが、出雲大社との関係を指摘する研究者もいます。
松江の神魂神社(かもすじんじゃ)。いま残っている大社造の本殿では、いちばん古い国宝です。
ここも、神座は横向き。ただし、出雲大社とは左右が反対です。
大社造の中のつくりには、ふた通りあります。
神座が右の奥にあって左を向く「男造(おづくり)」と、左の奥にあって右を向く「女造(めづくり)」。出雲大社は男造、神魂神社は女造です。

男造は男の神さま、女造は女の神さまの社に多い、とされます。
出雲大社は、大国主。神魂神社は、女の神さまのイザナミが中心です(夫のイザナギも一緒に祀られています)。ひとつ前の寄り道の千木も、出雲大社は先が縦の「男千木(おちぎ)」、神魂神社は先が横の「女千木(めちぎ)」。ここでは、きれいにそろっています。
ただ、どちらも「多い」という話で、決まりではありません。
大社造でも、正面を向いている神社があります。
そもそも、神主が中に入ってお祀りする形の本殿では、昔の宮殿にならって、建物を横向きに使うことが多い、という研究者の説明もあります。
出雲大社の西向きは、「大国主を拝ませないため」と説明されることがあります。
でも、国を譲らせた側のタケミカヅチも、横を向いている。それだけでは、説明がつかないんです。

素鵞社の行列と、稲佐の浜の砂
今年の9月、久しぶりに家族で出雲大社に行きました。
大学時代の友だちの家族も、一緒です。
大社に近づいたとたん、それまで空いていた道が、急に渋滞しました。
人が、めちゃくちゃ多い。地元の人より、県外から来ている人のほうが多かったと思います。数年前から、急に増えた気がします。
子どもたちは、建物より、自然に夢中でした。
松ぼっくり、大きな木、彼岸花。子どもが自分のカメラで彼岸花を撮っている姿が可愛くて、僕はその姿と彼岸花を撮りました。


いちばん驚いたのは、本殿の裏手、素鵞社(そがのやしろ)です。
スサノヲを祀るお社に、大行列ができていました。

何事かと思ったら、少し前にインスタで見た「砂」でした。
資料で確かめたこと
稲佐の浜で砂をとってきて、素鵞社に納め、そこにある御砂(おすな)をいただいて帰る。出雲大社の説明では、「ただいただいて帰るだけではいけません」。先に、置く。それから、いただく。


行列の手前には、大きめの箱のようなものがあって、「お急ぎの方はこちら」と書いてありました。
びっくりしたし、それでええんや、と思いました。
前によく来ていたころは、行列なんてありませんでした。素鵞社の裏手をぐるっと回るのも、ふつう。
妻と来たとき、裏の岩に触ったのを覚えています。
人の流れに合わせて、お参りのかたちも変わっていく。
それも、時代ごとに姿を変えるヲロチの話と、どこか似ています。
今回は行列を見ただけで、並ばずに帰りました。
稲佐の浜:感じるのが先、知るのはあと
稲佐の浜にはじめて行ったのは、偶然でした。
バイクでひとり、出雲大社を通り過ぎて、そのまま海のほうへ走った。
ちょうど、夕日の時間でした。

浜に、変な岩がある。その上に、小さな鳥居。
鳥居があるだけで、ただの岩が、まったくちがうものに見えた。
何なんだこれ? どういうこと?
なんか、ありそうやな。そう思って、バイクを止めて写真を撮りました。
あとから知りました。
ここが、タケミカヅチが剣を立てた、国譲りの浜とされる場所だということを。
古事記などに書いてあること
古事記では伊耶佐(いざさ)の小浜、日本書紀では五十田狭(いたさ)の小汀(おばま)、出雲国風土記では伊奈佐(いなさ)の社。音は近くて、字は少しずつ変わっていった。
岩は、弁天島(べんてんじま)。
旧暦の10月、全国の神さまが出雲に集まるとされる神在月(かみありづき)には、この浜で神さまを迎える神事が行われます。今年は、11月18日の夜7時。

弁天島は、昔より近くなりました。
砂浜が広がって、いまは浜から歩いてすぐのところにあります。僕がはじめて来たときにはなかった賽銭箱も、いまは弁天島のところに置いてある。
感じるのが先で、知るのはあと。
知ってから行くと、また、ちがって見える。それで、何度も通うようになりました。いまは、子どもとも行きます。
ただ、土地から受け取る「なんかある」という感覚と、人が語り継いできた神話を、同じものだとは思っていません。
どちらも、大事にしたい。それだけです。
寄り道|神在月は、いつから?
資料で確かめたこと
古事記にも、日本書紀にも、出雲国風土記にも、神さまが出雲に集まる話は出てきません。
島根県古代文化センターによると、いまのところいちばん古いのは、平安時代の終わりごろ、12世紀半ばの『奥義抄(おうぎしょう)』や『和歌童蒙抄(わかどうもうしょう)』。
ただ、995年の貴族の日記『権記(ごんき)』には、出雲国が「熊野と杵築の神の祭りがあるので、政務を止めている」と報告した記録があります。
ちなみに弁天島の神さまは、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)。
出雲観光協会のサイトでは、これまで「豊玉毘古命(とよたまびこのみこと)」と書かれていましたが、2025年、参考にした文献に誤記があったとして、直されました。公的なサイトでも、こういうことがある。
SRを届けてくれた友だち
9月に一緒に行ったのは、大学の寮で出会った友だちです。
卒業してから1年くらい、一緒に暮らしたこともあります。
僕が島根に移るとき、乗っていたSR400を運べなくて、富山の彼の家に預けました。
そうしたら、あとで彼が、そのSRに乗って、富山から島根まで届けてくれた。

着いたとたん、「SRで高速長距離は、もういいや」。
腕が、パンパンだったそうです。
SRは、400ccの単気筒。
下道をトコトコ走る分には、ドコドコという振動が最高なんです。でも高速道路に乗ると、そのドコドコが高い回転で「ビーン!」と、細かくて速い振動に変わる。
僕も高速で2〜3時間乗ったことがありますが、手はしびれるし、風がもろに体に当たってきつい。
SRは高速道路には向いてないな、と思いました。
下道なら、最高なんやけどな。
毎年、梨を送ってくれます。その前は、2020年に生のライチ、2021年に宮崎のマンゴー。
僕は、知り合いのシャインマスカットを送り返す。ちゃんと考えたことなかったけど、わりと世話になっています。

長男がマンゴーを大好きになったのは、このマンゴーがきっかけです。
そこから生まれたのが、長男のお話の絵本「マンゴーたろう」でした。
生のライチが届いたのは、2020年の一度きり。
粒が大きくて、輸入のライチのようなくさみが、まったくない。上の子(長男)は、そのときはじめてライチを口にして、ものすごい勢いで食べていました。

下の子は、そのライチを食べていません。
だから今回、彼が来たら「またライチ送って」とお願いするんだと、ずっと張り切っていました。でも、なかなか自分からは言い出せない。帰る直前に、一緒にお願いしました。
下の子は、宮崎のマンゴーも食べたと思い込んでます。上の子が好きでよく買う、アップルマンゴーのことやと思う。
宮崎のマンゴーも、品種はアップルマンゴー(アーウィン)が中心。
まるっきりの勘違いでも、ないんですけどね。
今年の9月の連休、その彼が、家族でキャンピングカーに乗って遊びに来てくれました。
その翌日に、一緒に出雲大社へ。
奥さんが神話好きで、宮崎の高千穂(たかちほ)にある天岩戸(あまのいわと)にも行ったことがあるそうです。
アマテラスが隠れた、岩屋の話。
国譲りのあと、古事記の話は、天の神の孫ニニギが地上に降りる「天孫降臨(てんそんこうりん)」へ続きます。
降りた場所は、日向(ひむか)の高千穂。いまの宮崎のあたりとされる場所です。

出雲は、国を譲った側。高千穂は、譲られた側が降りてきた場所。
国譲りの次の章の舞台を歩いたことのある人と、国譲りの社にお参りする。古事記の流れを、ちょうど反対からなぞったような一日でした。
古事記を、逆から歩いた日。
僕の見立て:譲った側を、いちばん大きく祀った
国譲りは、負けた話のはずです。
でも、読み比べると、どの本も大国主を悪者にしていない。
条件をのむ。贈り物をする。出雲だけは残す。言い方はちがっても、譲った側を、いちばんていねいに扱っている。
そして、いちばん大きな家。
地の底の岩に柱を立て、空に届くほど高く。言い伝えだと思っていた話を、地面の中の柱が、半分だけ本当にした。

敵を作らない。
いちばん古い歴史の本が、すでに、そういう書き方をしていた。このブログで僕がやりたいことと、同じでした。
正解は、ひとつじゃない。
これは、僕の見立てです。
今日の一曲
竹内まりやで、「縁の糸」(えにしのいと)。
2008年の朝ドラ「だんだん」の主題歌です。
「だんだん」は、松江育ちの女の子と、京都の舞妓が、出雲大社で出会うところから始まる双子の物語でした。
語り(ナレーション)も、竹内まりやさんです。
竹内まりやさんの実家は、出雲大社のすぐ近くの旅館です。
島根県の広報誌では、出雲大社を、自分が生まれた土地の神社、産土神社(うぶすなじんじゃ)として紹介しています。実家から歩いて1分。出雲に帰ってお参りするたびに、ここが自分の産土神社であることの幸せを、深く感じるそうです。
同じ文章には、こんなことも書いてありました。
お参りのあとは、亡くなったお父さんのやり方にならって、本殿のまわりを一周する。本殿の真後ろの素鵞社へ向かう、その道こそが、お父さんとの思い出のつまった「心の聖地」なのだ、と。
9月に僕たちが見た、あの行列の素鵞社です。
縁の糸、という題名。
縁結びと言われる出雲大社にも、この記事に出てきた友だちの話にも、つながる言葉です。
曲の終わりのほうに、こんな2行があります。
たとえ糸が もつれ合っても 結び直せばまた会える
私たちの 果てない夢は ずっと永遠に続くから
竹内まりや「縁の糸」(作詞・作曲 竹内まりや)より
国譲りも、古事記では、もめた話です。
タケミナカタは力くらべに負けて、諏訪まで逃げました。でも、どの本も、譲った大国主を悪者にしなかった。いちばん大きな家を建てて、縁を結び直したんだと思います。
大しめ縄も、何年かに一度、新しくなって掛け直されます。
大学の寮で出会った友だちとも、何年たっても、こうしてまた会える。縁の糸は、切れないんですね。
歌詞の全文は、Uta-Netで読めます。
竹内まりやさんの公式チャンネルに、ミュージックビデオがあります。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、おやすみなさい。



















