― この記事について ―

「変わらない味ですね」と言ってもらえる料理は、実は少しずつ変わっています。変えているのは味そのものではなく、美味しさを保つための方法です。道具の選び方、京都で学んだこと、そして「料理に完成はない」という話。

こんばんは、ひろしです。

今日は、道具の話でも、レシピの話でもありません。長く料理をしてきて、いま自分がどう考えているか、という話をします。

うまく書ける自信はないのですが、たぶん、僕がこのブログでいちばん書きたかったことの、ひとつです。

「変わらない味ですね」と言ってもらえる

店をやっていたころ、常連のお客様によく言っていただきました。

「いつ来ても美味しい」

「変わらない味ですね」

これは、料理人にとって本当に嬉しい言葉です。いまも、ケータリングで同じお客様に呼んでいただくたび、同じことを思います。

でも、正直に白状すると。

僕は、同じ作り方をしていません。

実は、少しずつ変えている

たとえば、パスタの茹で汁。

以前は、浄水に塩を入れて茹でていました。それがあるときから、昆布の出汁で茹でるようになった。ドライトマトでとった出汁で茹でたり、硬水で茹でたり、いろいろ試した時期もあります。茹で方そのものも、少しずつ調整してきました。

ひとつひとつは、小さな変化です。食べ比べても「別の料理だ」と言うほどの差ではない。気づかない人のほうが多いと思います。

でも、それを何年も積み重ねると、料理は確実に変わっていきます。

「変わらない味ですね」と言ってもらえる料理は、実は、変わり続けている。

「変わらない味」は、何も変えないことなのか

ここで、ひとつ考えてみたいことがあります。

お客様は、一度目に「美味しい」と思った記憶を持って、二度目に来てくださいます。

つまり二度目は、最初と同じ条件ではないんです。期待値が、すでにひとつ上がっている。

その状態で、作る側だけが何年も同じことを続けて、本当に「変わらない美味しさ」を感じてもらえるだろうか。

僕は、むしろ逆だと思っています。

作る側が変わり続けているからこそ、「いつ来ても美味しい」になるのではないか。

誤解しないでほしいのですが、これは「同じ製法を守り続ける店」を否定する話ではありません。何十年も同じ味を同じやり方で守る仕事には、それにしかない凄みがあります。

ここに書くのはあくまで、僕自身にとっての「変わらない美味しさ」の話です。

変えたいのは、味ではなく方法

僕が変えているのは、味そのものではありません。美味しさを保つための、方法です。

奇をてらって驚かせたいのではない。目的はいつも同じで、「以前美味しいと思ってくれた人に、今回も美味しいと思ってもらうこと」。

そのためなら、作り方は変わっていい。必要なら、変えたほうがいい。

食材は変わります。知識は増えます。技術は進歩するし、新しい機械も出てくる。

「昔からこうしているから」という理由だけで、方法まで固定する必要はないと思っています。

道具は、作りたい料理のあとから来る

方法を変える手段のひとつが、道具です。

ただ、僕の場合、順番が決まっています。先に「作りたい料理」があって、その手段として道具を選ぶ。道具が先に来ることは、ほとんどありません。

低温調理器を入れたのも、流行だからではありません。機械を買う前から、同じ考え方の調理はしていました。鍋の湯温を自分でコントロールして、真空にした食材を入れて、温度を見ながら火を入れる。低温調理器は、それをより安定して、効率よくやってくれる。だから入れた。機械は主人公ではなく、助けです。

いちばん悩んだのは、ガストロバックという減圧調理の機械でした。僕が買ったときで、80万円ほどです。

いまはもっと高くなっています。業務用厨房の販売資料には税抜99万円という定価が残っていて、そのうえ日本の正規代理店は取扱いを終えているため、新品を普通に買うのは難しいようです。だからこの記事は、「これを買いましょう」という話ではありません。

存在は前から知っていました。でも、知った瞬間に欲しくなったわけではない。「こういう機械があるんだな」くらいでした。

あるとき、「こういう料理を作りたい」が先に出てきて、実現する方法を考えていったら、「これをやるなら、この機械が必要なのでは」に行き着いた。当時、ほかの選択肢を自分では見つけられませんでした。

当然、悩みました。それでも買ったのは、高級な機器が欲しかったからではなく、その先に作りたい料理があったからです。

ガストロバックは、何をする機械か

名前だけ出しても分かりにくいので、少しだけ説明させてください。

ひとことで言うと、中の空気を抜ける鍋です。加熱もできて、同時に鍋の中の圧力を下げられる。

空気を抜くと、水は低い温度で沸きます。高い山の上でお湯が早く沸くのと、同じ理屈です。地上では100℃で沸くものが、この機械の中では50℃くらいで沸きます(どこまで空気を抜くかで変わるので、資料によって数字に幅があります)。

空気を抜くと水は低い温度で沸くことを、ふつうの鍋と減圧した鍋で比べた図

ふつうの鍋では100℃で沸く水が、空気を抜いた鍋では50℃くらいで沸きます

低い温度で沸かせると、何がいいのか。

香りや色は、熱に弱いものが多いです。ハーブでも果物でも、高い温度で煮出すと、いちばん出したかった香りが先に飛んでしまうことがある。低い温度のまま煮出せれば、それが残せると言われています。

そしてもうひとつ、僕にとってはこちらのほうが大きいのですが、食材の中の空気が抜けます

野菜にも肉にも、中には目に見えない隙間があって、そこに空気が入っています。圧力を下げると、その空気がふくらんで、外へ出ていく。実際、泡になって出ていくのが見えます。

きゅうりと魚の切り身の内部にある空気が、減圧すると泡になって出ていく様子の図

虫眼鏡の中が、食材の内部です。すきまに入っていた空気が、泡になって出ていきます

大事なのは、ここからです。圧力を元に戻すと、空気が出ていったあとの隙間に、まわりの液体が入っていきます。出汁でも、ソースでも。表面に絡めるのではなく、中へ入れる。

このあとに書く「アラの出汁を、魚の身に戻す」は、つまりこれのことです。

ただ、入れれば入る、という単純なものではありません。圧力を戻す速さで入り方が変わりますし、抜きすぎれば組織そのものが傷みます。素材ごとに、抜き方と戻し方を変える必要がある。

圧力をゆっくり戻した場合と急に戻した場合で、出汁の入り方が変わることを比べた図

ゆっくり戻すと奥まで入り、急に戻すと入口で止まってしまいます

機械が料理をしてくれるわけではない、というのは、そういう意味です。

道具が、新しい問いをくれる

面白いのは、ここからです。

買う前に想像していた使い方と、いまの使い方が、違うんです。

最初は「低い温度で火を入れながら、味を含ませる機械」だと思っていました。実際、それはできます。でもいまは、「食材の中に、その食材自身のエッセンスを戻すための道具」として考えることが多い。

魚を捌くと、頭や骨やアラが出ます。以前から捨てずに出汁を取って、ソースに使ってきました。いまはその出汁を、魚の身の中へ戻します。見た目はシンプルな切り身なのに、中にアラや骨の旨味まで入っている。魚を、丸ごと食べてもらうイメージです。

肉も同じです。筋や端材から取った出汁を、肉の中へ戻す。見た目はとてもシンプルな肉料理なのに、噛んだ奥に、いろいろな味がある。

使い方も、使いながら分かってきました。高価な機械を買えば自動的に美味しくなるわけではない。どう使うかを考えて、失敗して、やっと理解できる。

そして使っているうちに、「こんなこともできるのでは」「この素材ならどうなる」という発想が、次々に出てくる。

道具は、答えではなく、新しい問いを作るものでもある。新しい調理法や道具を取り入れる意味は、そこにもあると思っています。

※ガストロバックそのものの話——何ができて、何に悩んで、いまどう使っているか——は、長くなるので別の記事に書きます。公開したら、ここにリンクを張ります。

他の料理人から、学ぶ

この機械を調べていたとき、何度も同じ料理人の名前に行き着きました。京都の「CAINOYA(カイノヤ)」というお店の、塩澤隆由シェフです。

それで、勉強するつもりで、実際に食べに行きました。伺ったのは四条河原町にあったころで、いまは御室に移って営業されています。

印象的だったのは、加熱と冷却を繰り返して火入れを組み立てる、という考え方でした。魚は皮をしっかり焼きながら、身の状態は大きく変えない。肉は焼いて、冷やして、また焼く。僕が見て、そう理解した範囲の話ですが、自分では思いつかなかった組み立てでした。

食事のあと、厨房も見せていただいて、シェフとも話すことができました。安い食事ではありませんでしたが、高価なものを食べたという話ではなくて、自分にはなかった考え方をひとつ持ち帰れた。それがいちばんの収穫でした。

流行ではなく、内側から

科学的な知識は増え続けているし、新しい調理法も次々に生まれています。でも、最新の料理をすべて追いかけているわけではありません。

最近はむしろ、自分の内側から料理を考えることのほうが多いです。

順番は、「流行があって、道具があって、料理を考える」ではなくて。

「作りたい料理があって、必要な方法を考えて、道具を選ぶ」。

料理に、完成はない

最後に、この記事でいちばん書きたかったことを書きます。

僕は、料理に完成はないと思っています。

誤解のないように、丁寧に書かせてください。「完成していない料理を出している」という意味では、ありません。

お客様に出す一皿は、その時点の技術と、知識と、経験と、食材と、発想を総動員した、精一杯です。その意味で、その一皿は完成しています。完成させて、出しています。

でも、その一皿が「未来永劫、それ以上変えるところのない最終形か」と聞かれれば、違うと思う。

明日、新しいことを知るかもしれない。新しい食材に出会うかもしれない。新しい調理法を思いつくかもしれない。新しい道具で、今までできなかったことができるようになるかもしれない。

そうなれば、もう一度考えます。必要なら、変えます。

一皿は、完成させて出す。でも、料理そのものに、最終的な完成はない。

この二つは、矛盾しないと思っています。

常連さんの「いつ来ても美味しい」の裏で、料理は少しずつ変わっています。僕も、道具も、知識も、考え方も変わっていく。それでもお客様には、「いつもの美味しさ」であってほしい。

変わらない美味しさとは、何も変えないことで守るものではなく、変わり続けることで守るものなのかもしれません。

料理に完成がないから、考え続ける。試し続ける。必要なら、変える。

料理を続けるというのは、たぶん、そういうことです。

今日の1曲

ボブ・ディラン「Like a Rolling Stone」です。

書き終わったあと、なぜか頭の中で鳴っていました。歌詞の中身がこの記事と重なるかというと、正直、そうでもないと思います。転がる石にたとえて歌われているのは、僕の話ではない。

ただ、この曲を出した年、ディランはギターをエレキに持ち替えて、客席からブーイングが飛んだと伝えられています。「変わらないでほしい」と思われていた人が、変わるほうを選んだ。

「A rolling stone gathers no moss」ということわざがあります。もともとは「落ち着かない人には何も身につかない」という戒めですが、アメリカでは逆に「動き続けていれば、苔は生えない」という意味で使われることもあるそうです。

転がり続けるほうを選んだ人の歌なんだな、と、いまは思います。

How does it feel, how does it feel?
To be without a home
Like a complete unknown, like a rolling stone

ボブ・ディラン「Like a Rolling Stone」(作詞・作曲 ボブ・ディラン)より

本日もお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、おやすみなさい。