日本に来たコーヒー|コーヒーの歴史⑤
コーヒーの歴史、最終回です。
前回は、燃やされたコーヒーと、いまの一杯の値段の話を書きました。その最後に、こう書きました。ブラジルが豆の余りに悩んでいたころ、サンパウロ州から宣伝用の豆を無償で受け取った日本人がいて、その豆で1911年に開いたのが「カフェーパウリスタ」。最初の一軒は、大阪の箕面にありました、と。
箕面は、僕の地元のすぐ隣です。
最終回は、そこから始めます。


滝と、猿と、もみじの天ぷら
箕面と聞いて、まず浮かぶのは、滝と猿です。
僕が育ったのは千里ニュータウンで、自然がいっぱい、という場所ではありませんでした。だから箕面は、自然を見に行く場所でした。家族では紅葉を見に、学校では遠足で。小学校の低学年のころから、何度も行っています。
滝までの道は山の中ですが、よく整備されていて、歩きやすい。落差は33メートル。箕面大滝という名前は、流れ落ちる姿が、農具の「箕(み)」に似ているからだそうです。
箕というのは、竹や藤で編んだ、ちりとりのような形の道具です。穀物をのせてあおると、軽い殻やごみだけが飛んでいって、実が残る。手前の口が広くて、奥がすぼまっている。あの形です。

もみじ饅頭が売っていて、もみじの天ぷらも売っていました。赤いもみじの葉を揚げたものです。おいしいかどうかは、正直、よく覚えていません。1300年ほど前、箕面山で修行していた役行者(えんのぎょうじゃ)が旅人にふるまったのが始まり、と伝えられています。
猿は、いまも山にいます。ただ、昔のように滝道やドライブウェイにたむろしている姿は、ほとんど見られなくなりました。人に慣れすぎて問題になった時期があり、餌場を山の奥へ移し、2010年には、餌やりを禁止する市のきまり(条例)もできました。サルたちは、人の食べ物に頼らない暮らしに戻っていったのです。いまも滝道で見かけることはありますが、会えたらラッキー、くらいの距離感です。
箕面には、もうひとつ「昔からずっと言われていたこと」がありました。電車が伸びる、という話です。僕の最寄りは桃山台で、北大阪急行の終点は長いあいだ千里中央でした。その線が箕面まで伸びたのは、2024年3月。ずいぶん長いあいだ、伸びる伸びると言われ続けた線が、やっとつながりました。

日本で最初のブラジルコーヒーの店は、箕面にあった
その箕面に、日本で最初のカフェーパウリスタができたのは、1911年(明治44年)6月25日のことです。
場所は、箕面駅前。滝道の入口に立っていた「金星塔」という2本の塔の、東側の洋館でした。名前は「カフエーパウリスタ箕面喫店(みのおきってん)」。前日の6月24日の新聞に出た開店広告は、いま箕面市が資料として持っています。
銀座に店ができたのは、同じ年の12月12日です。箕面のほうが、半年早い。会社自身も、1号店は箕面だと認めています。

なぜ、銀座ではなく箕面だったのか。
当時の箕面は、鉄道会社がつくった行楽地(人が遊びに行く場所)でした。1910年、箕面有馬電気軌道(いまの阪急)が梅田から宝塚へ、石橋から箕面への線を通します。同じ年の11月には、箕面に動物園も開きました。広さは3万坪。いまの東京ドーム2つぶんくらいで、当時の上野や京都の動物園の3倍でした。翌年には、座席のない立ち乗りの観覧車まで登場しています。
つまり、電車に乗って遊びに来る人が、たくさんいた。日本のブラジルコーヒーは、行楽地の駅前から広がっていったのです。
翌1912年1月の新聞広告には、店の名前として「東京、大阪、箕面、宝塚」と並んでいます。箕面も宝塚も、同じ鉄道会社がつくった行楽地です。
箕面の店が、いつまで営業していたのかは、分かっていません。箕面市も「営業期間は不明」と書いています。
一杯5銭
パウリスタのコーヒーは、一杯5銭でした。ドーナツも5銭。
これがどれくらいの値段だったのか。お金の単位は、1円が100銭、1銭が10厘です。同じ年、はがきは1銭5厘、封書は3銭。日雇いで働く人の1日の賃金は、全国平均で56銭でした。
一杯5銭は、はがき3枚ぶん。日給の11分の1です。

店で働いていたのは、海軍の制服に似たそろいの服を着た、少年の店員たちでした。女給さんは置いていません。
銀座の店には、男子禁制の「婦人室」がありました。店ぜんぶが男子禁制だったのではなく、店の中に、女性だけが入れる部屋があった、ということです。そこに平塚らいてうたち青鞜社(せいとうしゃ)の女性が集まったと伝えられています。青鞜社は、女性が自分たちの手でつくっていた雑誌『青鞜』の仲間です。
ふつうの席には、もちろん男性も入れます。芥川龍之介も、この店に通ったひとりでした。
1911年の銀座には、カフェーが3軒、相次いでできています。春にできたカフェー・プランタンは会員制で、森鷗外や永井荷風、谷崎潤一郎といった文学者が集まりました。夏にできたカフェー・ライオンは、女給さんが評判の店。そして冬にできたパウリスタは、一杯5銭で、誰にでも開かれていました。

ところで、「銀ブラ」という言葉があります。銀座でブラジルコーヒーを飲むことだ、という説を聞いたことがあるかもしれません。パウリスタには「銀ブラ証明書」もあります。
ただ、いちばん古い記録は、1918年に出た言葉の辞典で、そこには「銀座の街をぶらつく事」と書かれています。いまの国語辞典は、ブラジルコーヒー説を「あやまり」としています。
どちらが正しいかより、一杯5銭の店が、それだけ街になじんでいたことのほうが、僕には面白いと思えます。
その豆は、ブラジルから無償で届いた
前回の話と、ここでつながります。
1908年、笠戸丸で781人がブラジルへ渡りました。この第1回のブラジル移民を募集して、送り出したのが水野龍という人です。
ところが、移民の事業は赤字でした。水野の会社は倒産し、会社を手放したあとも、彼は実務の責任者として移民の世話を続けます。その水野に、サンパウロ州政府がコーヒー豆の無償提供を申し出ました。
条件がありました。日本各地にコーヒー店を開くこと。ただでもらったのではなく、ブラジルのコーヒーを売り広げる仕事を引き受けた、ということです。
届いた量は、年におよそ1,000俵。重さにして70トンほどです。当時の日本が1年に輸入していたコーヒーの、何倍もの量でした。はじめは3年の約束でしたが、結局12年続き、合わせて800トンあまりが無償で届いています。水野は、この豆を「補助珈琲(ほじょコーヒー)」と呼びました。

ひとつ、正直に書いておきます。
笠戸丸で渡った人たちのうち、最初に入った農場に1年後まで残っていた人は、18パーセントでした。前回書いたとおり、床板もない家で、その年は不作でした。日本のコーヒー文化が始まった豆は、その人たちが渡った先から届いたものです。

その前の日本にも、コーヒーは来ていた
もちろん、1911年より前に、コーヒーが日本になかったわけではありません。
長崎の出島には、江戸時代からオランダ船が運んできていました。味の感想を書き残した、よく知られた最初期の記録が、大田南畝(おおた・なんぽ)のものです。
よく「1804年にコーヒーを飲んだ」と紹介されます。ただ、原本を読むと、少し話が違いました。
南畝が役人の仕事で長崎へ移ったのは、1804年の9月。コーヒーの記事があるのは、その翌年、1805年の夏(八月九日)です。そして原文は、こうです。
紅毛船にて「カウヒイ」といふものを勸む、豆を黑く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず
大田南畝『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』(『蜀山人全集(しょくさんじんぜんしゅう)』第3冊、吉川弘文館、1908年、625頁)より
「飲む」ではなく、「勸(すす)む」。自分から飲みに行ったのではなく、オランダ船ですすめられたのです。
この日の記録を読むと、南畝はオランダ船を見物しています。ジンやぶどう酒の名前が出てきて、船長の部屋に入って、木で作った鹿の頭に本物の角をつけた飾りを見て、日本の神社の飾りと似ているな、と書いている。その一日の中の、一杯でした。

すすめられて、ひと口飲んで、焦げくさくて飲めたものではない。そう書き残されたのが、日本人とコーヒーの、最初のころの出会いです。

コーヒーのための店ができるのは、それから80年以上あとのことです。1888年、東京・下谷の西黒門町(いまの台東区上野)に「可否茶館(かひさかん)」が開きました。開いたのは鄭永慶(てい・えいけい)という人。イェール大学で学び、外務省でも働いた人です。
2階建ての洋館に、ビリヤードやトランプ、更衣室、シャワーまであって、国内外の新聞や雑誌、本も置いてありました。
当時は、鹿鳴館(ろくめいかん)の時代です。政府の要人や外国人が舞踏会を開く、上流階級だけの場所でした。鄭永慶がつくろうとしたのは、その反対です。身分に関係なく、誰もが集まって知識を交わせる場所。それが可否茶館でした。
コーヒーは1銭5厘、牛乳入りで2銭。当時そばが8厘ほどでしたから、一食より高い贅沢品でした。店は4年で閉じています。

ちなみに、神戸のお茶屋さん、放香堂(ほうこうどう)は、それより10年早い1878年の新聞に「焦製飲料コフイー」の広告を出しています。お茶の店で出された最初と、コーヒーのためにつくられた最初。どちらが先かというより、役割が違ったのだと思います。
もうひとつ。「珈琲」という字は、日本人が考えたものだと長く言われてきました。宇田川榕菴(うだがわ・ようあん)という蘭学者が、かんざしの玉かざりを表す字から当てた、という話です。ただ、近年の研究で、これは中国から来た字だと分かっています。いま確認できる最古の用例は、1844年の中国の書物です。
箕面の洋館は、豊中へ運ばれた
さて、箕面の店です。
閉店したあと、あの洋館は大阪お伽倶楽部(おとぎくらぶ)の事務所になりました。子どもにお話を聞かせる会で、箕面動物園の運営にもかかわっていた団体です。建物は鉄道会社のものだったので、そのあと、阪急が開発した豊中の住宅地へ移築されます。
豊中は、僕の地元です。
移された洋館は「豊中クラブ自治会館」として、町の集まりの場所になりました。そして百年近く使われたあと、建物が古くなったため、2013年10月1日に解体されています。10月1日は、コーヒーの日です。
古い部材の一部は、豊中市が取り外して保存し、いまの建物の中に再現されています。2022年には、箕面市立郷土資料館で「カフェーパウリスタと箕面」という企画展も開かれました。
市史を調べていた市の職員が気づかなければ、この建物のことは、誰も知らないままだったかもしれません。
戦争で途切れて、また戻ってきた
日本のコーヒーは、そのあと一度、ほとんど消えます。
輸入量を見ると、はっきり分かります。1937年に8,571トンあった生豆(焙煎する前の豆)の輸入は、1942年には244トン。5年で35分の1です。戦争のなかで、コーヒーは手に入らないものになりました。
それでも人は、コーヒーをあきらめませんでした。大豆や麦、木の実や根など、身近なものを煎って「代用コーヒー」にする。その作り方の本まで出ています。戦時下の代用コーヒーだけを調べた研究もあるほどです。
裏を返せば、この時点でコーヒーは、なければ困るものになっていたということです。出島の一杯から140年、箕面の一杯から30年で、コーヒーは日本の暮らしに根を下ろしていました。

輸入が再開したのは1950年。その年は163トンでした。1960年に輸入が自由化されると、10,866トンに。10年で67倍です。

同じ1960年、森永製菓が日本で初めての国産インスタントコーヒーを出します。
ところで、インスタントコーヒーは、どうやって作るのでしょう。
やっていることは、いたって単純です。豆を焙煎して挽き、家で淹れるよりずっと濃いコーヒーを抽出する。それを煮詰めて、さらに濃くする。あとは水分だけを飛ばして、粉にする。それだけです。
この「粉にする」やり方が、2通りあります。ひとつはスプレードライ。熱い風の入った塔の中に、コーヒーの液を霧にして吹き込み、落ちていくあいだに水分を飛ばす方法です。サラサラの細かい粉になります。
もうひとつがフリーズドライ。コーヒーの液をマイナス40度ほどで凍らせ、強い真空にかけて、氷を水に戻さないまま抜いてしまう方法です。ゴツゴツした大きな粒になります。熱をかけないぶん、こちらのほうが香りが残ります。
ビンを振ってみて、粒が大きければフリーズドライ。砂のように細かければスプレードライです。

そして、缶コーヒー。
缶コーヒーの「世界初」は、実はふたつあります。1965年、島根県浜田市出身の三浦義武さんがつくった「ミラ・コーヒー」。これは砂糖入りで、ミルクは入っていません。もうひとつが、1969年のUCC「コーヒーミルク入り」。こちらはミルク入りの缶コーヒーとして世界初です。
どちらも、嘘をついていません。違うことを言っているだけです。ちなみにギネス世界記録が認めたのは「世界初」ではなく、UCCの「缶コーヒーの最長寿ブランド」でした。

僕の家にも、コーヒーがあった
ここからは、僕の話です。
子どものころ、家には毎朝コーヒーがありました。父も母も飲む人で、たいていは母がコーヒーマシンで淹れていました。豆から挽く日もあれば、挽いた豆の日もある。インスタントも、いつも棚にありました。
自分で飲み始めたのは、小学校の5、6年ごろです。牛乳を入れて、コーヒー牛乳にして飲んでいました。なぜ飲み始めたのかは、覚えていません。自然と、です。
いまでも実家に帰ると、母が毎朝淹れています。
思い返すと、コーヒーと音楽が、ずっとそばにありました。父のレコードが鳴っていて、コーヒーの匂いがする。僕にとっての家の風景は、たぶんそれです。

大学で寮に入ったときも、荷物の中にインスタントコーヒーが入っていました。それを毎日、自分で淹れて飲んでいた。ある日、ふと思ったんです。
なんでこんなまずいコーヒーを、俺は飲んでんねん。

そこから、豆を買うようになりました。こだわりといっても、当時はアラビカとロブスタくらいしか知りません。それでもブレンドではなく、コスタリカ、パナマ、モカと、一種類の豆を選んで買っていました。いまと同じです。
忘れられない、三軒
喫茶店の話をさせてください。忘れられない店が、三軒あります。
一軒目 nuit cafe(富山・五福)
富山のnuit cafe(ニュイカフェ)。五福にあった店で、夜12時までやっているのが売りでした。nuit はフランス語で「夜」です。クレープが看板の店で、あとからガレットも出すようになりました。しゃれた感じのご夫婦がやっていました。学生のころから通って、料理の道に進みたい、という話も、あそこでしていたと思います。2007年の暮れに、店を閉めています。
二軒目 koffe(富山・松川沿い)
松川の桜並木のすぐそばにある、小さな店です。できた当初から通っていました。
最初に気に入ったのは、鳴っている音楽でした。マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』だったと思います。スピーカーはJBLで、いい音がしていた。店主も、オーディオが好きそうな人です。コーヒーは、注文してから一杯ずつペーパードリップで淹れてくれました。
店を始めたころは焙煎機がなくて、どこかの焙煎所を借りて焼いていたそうです。そのあと入った焙煎機が、変わっていました。アメリカ製で、日本ではほとんど見かけないもの。機械の前に、日本の地図記号の温泉マークみたいな紋章が付いていて、ずっと気になっていました。
今回調べて、やっと分かりました。カリフォルニアのRenegadeという小さなメーカーのものです。ロゴは、浅い器から湯気が3本立ちのぼる形。確かに、温泉マークにそっくりでした。たぶん、湯気を表したものなのでしょう。

三軒目 純喫茶ローレンス(金沢・片町)
学生のころ、富山から原付で通っていました。距離を考えると、われながら、よく通ったと思います。

店はビルの最上階。ビルの上に、大きな看板が出ています。店の中は、植物と、絵でいっぱい。壁の絵は、全部お店の方が描いたものだそうです。おばちゃんがひとりでやっていて、僕はそこで本を読むのが好きでした。金沢に転勤したときにも行きましたし、結婚してから、妻と北陸を旅したときにも寄りました。

コーヒーというより、お店の方と話したり、あの空間にいることが目当てだったように思います。
この店は1966年から続いていて、五木寛之さんが直木賞の知らせを受けた店としても知られています。あのころのおばちゃんは、いまもひとりで店に立っているそうです。ただ、予約制で、夕方の2時間だけだと聞きました。

喫茶店は減った。でも
日本の喫茶店がいちばん多かったのは、1981年です。15万4,630軒ありました。2021年は5万8,669軒。ピークの4割を切っています。
ただ、数字をもう少し見ると、別のことも見えてきます。喫茶店の4分の3は、個人のお店です。チェーンではなく、誰かが自分で開けている店が、いまも主役です。島根県には297軒あります。

いま、日本人が1週間に飲むコーヒーは10.05杯(2024年度の調査)。そのうち7.28杯は家で飲んでいます。喫茶店で飲むのは、0.22杯。ほとんどのコーヒーは、家で飲まれている。
それでも、僕がいま覚えているのは、家で飲んだ一杯ではなくて、あの三軒の景色です。
日本から、世界へ
最後に、明るい話を集めました。
10月1日が、世界の記念日になった
1983年、全日本コーヒー協会が10月1日を「コーヒーの日」と決めました。コーヒーの取引では10月から翌年9月までをひと区切りにしていて、その始まりの日です。2015年には国際コーヒー機関も同じ日を記念日とし、そして2026年3月10日、国連の総会が10月1日を「国際コーヒーデー」と決めました。賛成150か国です。
日本の小さな取り決めと同じ日が、世界の暦になりました。
品評会をつくった6人のうち、1人は日本人
前回書いた品評会、カップ・オブ・エクセレンスを1999年に作ったのは6人です。その6人のうち1人が日本人でした。林秀豪さん。コーヒーで世界初のインターネット・オークションを作ったのも、このチームです。豆に名前と値段がつく仕組みができた席に、日本人がいました。
ブルーマウンテンの7割は、日本が買っている
ジャマイカのブルーマウンテンは、2017/18年の輸出の7割を日本が買っています。ジャマイカには「ブルーマウンテンコーヒーの日」があって、それは1967年1月9日、キングストンの港から日本へ大きな船積みが行われた日です。
「溶けるコーヒー」を万博で見せた日本人
1901年には、アメリカ・バッファローの万博で「溶けるコーヒー」を発表した日本人もいました。加藤サトリという化学者です。
溶けるのは、コーヒーそのものです。淹れたコーヒーの水分を飛ばして粉にしておき、湯を注ぐと、また溶けてコーヒーに戻る。いまのインスタントコーヒーのご先祖にあたるものです。加藤は1899年に、コーヒーの液を粉にする真空乾燥の実験に成功し、その2年後、万博の会場でそれを世に見せました。
円すいのドリッパーは、日本から
いま世界中のカフェで使われている円すい形のドリッパー、ハリオのV60が生まれたのは2005年。ただ、紙で淹れるドリップそのものを発明したのは日本ではありません。1908年、ドイツのメリタ・ベンツが、息子のノートの吸取紙で考えたものです。
発明したのは、よそ。それを「きちんと淹れる」文化として磨いて、道具ごと世界に返したのが、日本でした。

世界は、いい方向に進んでいると思いたい
5回にわたって、コーヒーの歴史を書いてきました。
僕にとって、コーヒーは昔から日常でした。豆から淹れるようになって、スーパーや百貨店で豆を買っても、うまく膨らまない。膨らむ豆を探したら、焙煎所だった。それからずっと、焙煎所に通い続けています。通っていると、豆の名前も、自分の好みも、少しずつ分かってきます。
振り返ると、本当に暗い歴史もありました。
それでも僕は、世界はいい方向に進んでいると思っています。思いたい、という気持ちも正直あります。フェアトレードも、カップ・オブ・エクセレンスも、昔はなかったものです。いろんな取り組みがされてきて、豆が買い叩かれないようになってきていると思いたい。
徐々にでも、少しずつでも、世界はいい方向に向かっている。
そして、豆を買う側の僕たちが、難しいことを考えなくても、払ったお金がちゃんと農家に還元されていく。そういう社会になってほしいし、なっていくと信じています。

箕面の駅前に立った小さな洋館は、しばらくして店をたたみ、豊中へ運ばれて、町の集会所になりました。そして百年後のコーヒーの日に、静かに取り壊されました。
その百年のあいだに、日本は世界で4番目にコーヒーを飲む国になりました。
次にコーヒーを買うとき、袋の名前を少しだけ見てみてください。国の名前、地域の名前、品種の名前。その向こうに、豆を育てた人がいます。
今日の一曲
進藤宏希さんで、「箕面」。アルバム『after all』(2019年)に入っています。
Apple Music・iTunesのほか、Amazon Musicでも聴けます。
コーヒーの歴史の3回目で、「なまえ」という歌を紹介しました。進藤さんが、相羽崇巨さんに贈った歌です。その進藤さんに、「箕面」という曲がありました。
最終回を箕面から始めると決めたあとで、そのことに気づきました。偶然ですが、こういう偶然は、うれしいものです。
5回にわたる「コーヒーの歴史」は、これでおしまいです。長いあいだ、おつきあいいただきありがとうございました。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。











