コロナで、お店が止まった。

十六年、料理だけを見てきたぼくの時間が、ある日ふっと、行き場をなくした。

これからどうやって生きていこう。
そう考えたとき、いくつかの可能性を、手探りで試した。

そのなかに、音楽があった。
学生の頃からずっと続けてきて、でも、たいした成果なんて何も残せなかったもの。

それでも、手放せなかったものだった。

その音楽の話は、こちらに

画面越しの友

相羽崇巨(あいば たかおみ)さんを知ったのは、七尾旅人さんの配信だった。

呼吸器シンガー、相羽崇巨。
筋ジストロフィーという病を、隠すどころか、強みに変えて歌う人だった。

ぼくはCDを買った。
Xでフォローした。

相羽さんは名古屋。ぼくは出雲。
会ったことはない。やり取りは、メールとLINEと、電話とZoom。

それなのに、不思議なくらい、すぐに近くなった。

やがて相羽さんは、曲作りをぼくに任せてくれるようになった。
画面の向こうから、「ひろしさん、これお願いできる?」と。

初めての一曲

「四つ葉のクローバー」。

ぼくが、初めて人のために作った曲だった。

どうやればいいのかも、よくわからなかった。
ただ無我夢中で、音を組み立てた。

完成したとき、ぼくはまだ、この曲が誰に向けられたものなのか、何も気づいていなかった。

届いた、という奇跡

曲ができたことを、Xで報告した。

すると、いいねをくれた人がいた。

そのアイコンに、ぼくは見覚えがあった。

いや、正確には——その絵そのものじゃなくて、絵筆のタッチに、だった。

以前、七尾旅人さんが note に載せていた、一枚の絵。
ぼくは当時、それが誰の描いたものかも知らずに、ただ見ていた。

白黒の絵だったと思う。

いいねをくれたその人のアイコンは、その絵とは別のものだったけれど、
筆の運びが、同じだった。

色じゃない。線の、息づかいのようなものが、似ていた。

——もしかして。

その絵を描いていたのは、あるひとりの女の子の、お母さんだった。
お母さんは、絵描きだった。

その女の子のことを、ここでは L としておく。

ぼくは、「四つ葉のクローバー」の歌詞を、もう一度読み返した。

七尾旅人さんが L のために作った歌の名は、「Three Leaves♣」。
三つ葉の、クローバー。

そして相羽さんが L のために作った歌が、「四つ葉のクローバー」。

——三つ葉に、もう一枚。
幸運の、四つ葉。

題名が英語だったから、ぼくはずっと、その繋がりに気づけずにいた。
気づいた瞬間、震えた。

初めて作った曲が、ずっと気にかけていた人へ向けられたもので、
そして、ちゃんと本人に、届いた。

嬉しくて、涙が出た。

四つ葉のクローバー
作詞・作曲 /相羽崇巨 編曲 /ひろし
三つ葉がいつの日か 四つ葉になるように
今すぐ 咲かなくても いつか笑顔を咲かす

君の命は君だけのもの
僕の命は僕だけのもの
だから今こそ 生きて欲しい
言葉1つでどうにでもなれるから
どうか。どうか。祈りが届くように。

三つ葉がいつの日か 四つ葉になるように
今すぐ 咲かなくても いつか笑顔を咲かす

君の命は家族のもの
僕の命はあなたのもの
あなたがもしも微笑んだなら
青空に幸せをとどけるよ
いつか。いつか。菜の花が咲くように。

種を蒔いたなら いつか 芽をだすように
花が咲いた時には 心から抱きしめるよ

三つ葉がいつの日か 四つ葉になるように
今すぐ 咲かなくても いつか笑顔を咲かす

いつの日か 会えるまで

この物語のことは、#PrayForL♣ という言葉で、いまも繋がっている。
すべての始まりは、七尾旅人さんご本人の言葉にある。
▶ 七尾旅人さんの note を読む

一度きりの名古屋

相羽さんとは、たくさんの曲を作った。

そのなかに、ぼくの息子のための歌「湊」があった。
相羽さんが作曲して、ぼくが編曲した。
相羽さんの2ndアルバムに入っている。

そのリリース記念のライブに、息子を二人つれて、名古屋まで観に行った。

相羽さんは、ぼくたちを二晩、泊めてくれた。

初日は、相羽さんのライブ。
翌日は——たまたま、七尾旅人さんが名古屋でライブをする日だった。
「チケットがあるから、ぜひ一緒に」と、相羽さんが誘ってくれた。

相羽崇巨さんのライブを聴く子どもたちの後ろ姿
相羽さんのライブを聴く、子どもたちの背中。

七尾旅人さんの配信で、ぼくは相羽さんを知った。
その七尾旅人さんのライブを、いま、相羽さんと並んで観ている。

不思議な、巡り合わせだった。

合間には、街を案内してくれた。
相羽さんのお父さんがやっている中華料理のお店で、ごはんも食べた。

子どもたちは、相羽さんに、ミニカーをもらった。
ランボルギーニと、ポルシェ。

二人の、あの満面の笑み。
相羽さんの優しさが、そのまま顔に出ていた。

「ぼくたち、もう何回も会ってますよね」
お互いに、冗談みたいにそう言い合った。

——でも本当は、ぼくが相羽さんに会えたのは、この一度きり。
たった一度の、とても濃い時間だった。

それでも、いる

二〇二三年十二月二十日。
相羽さんは、いなくなった。

29歳という若さだった。

——初めて、本当に会えてから、
たった9ヶ月後のことだった。

せめて、年に一度でも、会いたかった。

亡くなる二日前にも、電話で話していた。
バンドの方向性の相談だった。
だから、本当に、信じられなかった。

相羽さんは、最期の最期まで、前を向いていた。
病を言い訳にせず、止まらず、ずっと先を見ていた。

ぼくは、その姿勢を、心から尊敬している。
そして、見習いたいと思っている。

いまも年に一度、ぼくは息子と名古屋へ行く。
相羽さんの作ってくれた歌を、歌いに。
感謝を込めて。

正直に言うと、ぼくはまだ、相羽さんがどこかにいる気がしている。

いまも、携帯が鳴ると、ふと思う。
——相羽さんかもしれない、と。

相羽さんは、ほんとうに、しょっちゅう連絡をくれたから。

ここではなくとも、どこかに。

それはきっと、ぼくがまだ、相羽さんの死を受け入れられていない、ということでもあると思う。

だからこの文章を、ひとつの区切りにしたいと思って、書いている。

受け取った、八十曲

三年のあいだに、相羽さんとぼくは、八十曲を作った。

相羽さんは、ものすごい速さで曲を生んでいた。
まるで、残された時間を知っていたみたいに。

聴いてもらえるのは、2ndアルバムの数曲と、
相羽さんのYouTubeチャンネルに残る、わずかな歌だけ。

あとは、まだ世に出ていない。

この未発表の歌たちを、少しでも、ファンの方に届けたい。
やり方は、まだ模索している。簡単なことではない。

でもこれは、ぼくのライフワークになるのかもしれない。

相羽さんとは、よく話した。

音楽は、お金じゃない。
売れることも——たくさんの人に届けるためには、大切だけれど。

それよりも、何よりも。
歌が、歌い継がれていくこと。

相羽さんは、よく言っていた。
「ぼくの歌を、みんなに歌ってほしい」と。

誰かが歌って、その誰かが、また別の誰かへ。
そうして歌が続いていけば、相羽さんも、ずっと生きていける。
ぼくは、そう思っている。

どこかで、同じ気持ちでいる人に。
その歌が届いて、すこしでも、救いになったら。

それが、ぼくたちの願いだった。


ずっとあとになって、ぼくは YouTube で「四つ葉のクローバー」を歌った。

ぼくの YouTube は、自分の歌いたい歌を、ただ歌うだけの場所だった。
そのうち話が長くなってきて、なんとなく、更新をやめてしまっていた。

その動画に、L が——誰が教えたわけでもないのに——自分でたどり着いて、聴いてくれたのだという。

あとから、お母さんが教えてくれた。

その言葉を、ぼくはいまも、忘れられない。

思いは届くのですね。

音は、残る。
人がいなくなっても、
想いがすれ違っても、
歌は、どこかへ、
ちゃんと、届いていく。

ぼくの歌も、こちらに。

♪ SoundCloud(ひろし)で聴く