僕のコーヒーは、「ちょっとそこ座れ」から始まった|料理人になる前の話
白状します。僕はこのブログで、コーヒーの話をしたことがありません。
20年以上、毎日欠かさず淹れてきて、豆は冷凍庫に住んでいて、手回しのミルを何十年も回してきたのに、です。こだわりが深すぎて、どこから書けばいいのか分からなかったのかもしれません。
今日から何回かに分けて、僕のコーヒーの話を書きます。第1回は、すべての始まりの話。じつはこの話、僕が料理人になった理由の話でもあるんです。

「なんで俺は、こんなまずいコーヒーを毎日飲んでんねん」
実家は、朝はコーヒーの家でした。子どもの頃から、特に疑問もなく飲んでいた。インスタントも豆のコーヒーも、両方が家にありました。
大学生になって、寮に入り、それから一人暮らしを始めました。コーヒーは相変わらず毎日飲んでいましたが、自分で淹れるのは、もっぱらインスタントでした。淹れ方を知らなかったので。
ある日のことです。特別な出来事があったわけではありません。いつものようにインスタントコーヒーを飲んでいて、突然、自分の中でツッコミが入ったんです。

インスタントコーヒーには、めっちゃ失礼な話なんですけど。インスタントにはインスタントの良さがあることも、いまは分かっています。ただあの日の僕は、そのとき確かにそう思ってしまった。そして思ってしまったからには、ちゃんと淹れられるようになりたくなったんです。
本と、母から届いた手回しミル
そこからは、本を読んで独学しました。母に電話して、「豆を挽くやつ、家にない?」と聞いたら、実家に手回しのコーヒーミルがあって、送ってもらいました。
届いた段ボールを開けると、ミルだけではありませんでした。ドリッパー、サーバー、ペーパー、それにスーパーで売っている真空パックの豆まで。そのままコーヒーが淹れられる状態の、一式セットです。開けたときは、嬉しかった。これが、僕のコーヒー生活の始まりでした。
ちなみにドリッパーは、昔よくあった、底に穴が3つ空いているタイプです。

ここから、僕のペーパードリップ生活が始まりました。ちなみにこの手回しミル、ここから何十年も、毎日僕の豆を挽き続けることになります。その話はまた別の回で。
本と違う。膨らまない
最初の壁は、豆でした。
スーパーで売っている、挽いていない豆を買ってきて、ミルで挽きたてにして、淹れてみました。本にはこう書いてありました——蒸らしのとき、少しずつお湯を加えると、粉がハンバーグみたいに膨らんでくる、と。
膨らまないんです。挽きたてなのに、まったく。それどころか、真ん中がすり鉢みたいに、へこんでいく。

本には、豆の鮮度のことは何も書いてありませんでした。だから、余計に悩みました。書いてある通りにやっているのに、書いてある通りにならない。お湯の注ぎ方が悪いのか、蒸らしが悪いのか。
さんざん淹れ方を疑ったあとで、ようやく思い至りました。淹れ方じゃなくて、豆そのものが違うんじゃないか、と。この違和感が、僕を豆探しに向かわせました。
「ちょっとそこ座れ」
コーヒー好きの友人に聞いて、富山の西武デパートの豆屋にも行きました。悪くはなかったけれど、ピンとこない。
そんな頃、原付で富山の街を走り回っていた僕には、前から気になっている店がありました。よく通る道沿いの、昔からありそうな、古い構えの個人店。「コーヒー工場アラジン」。個人店やし、古そうやし、どうかな——と、入りにくさもあった。それでも、ある日思い切って入りました。
店には、無口そうな年配の男性がひとり。「豆を買いに来ました」と言うと、返ってきた言葉が、これでした。
ちょっとそこ座れ。
豆を買いに来ただけなのに、なぜ座らされるのか。正直、最初は少し怖かった。
座ると、店主はコーヒーを一杯、淹れてくれました。その日のおすすめの豆を実際に飲ませて、これはこういう豆だ、と説明してから売る。そういう店だったんです。

「どんな豆がいい?」と聞かれて、選んだのはたぶんガテマラでした。正直に言うと、当時の僕が知っている数少ない名前だったから、という理由も大きい。でも不思議なもので、あれから20年以上たったいまも、僕はガテマラがいちばん好きです。
保存方法も聞きました。すぐ飲みきらんのなら、もう冷凍庫に入れとったらいいわ——という趣旨のことを教わって、僕はそれ以来ずっと、豆を冷凍庫で保存しています。いまは「本当にそこまで必要か」という考えもあることを知っていますが、長持ちという意味では理にかなっていると思っていて、いまも続けています。
「これこれ、これ!」
じつは店を出たあと、少し心配もしていました。あれだけ古そうな店だと、売れ残ったずいぶん古い豆なんじゃないか、と。ひどい話です。
家に帰って、挽いて、お湯を注ぎました。
ぶわーっ、と膨らんだんです。本で見た通りに。粉の真ん中が、大きく、大きく。
これこれ、これ!

スーパーの豆とは、全然違いました。豆の鮮度で、こんなに違うのか。それからずっと、アラジンに通うようになりました。通ううちに分かったのですが、店主は無口な人ではありませんでした。慣れると、結構しゃべってくれる人でした。
これが、僕のコーヒーの始まりです。
本当は、カフェをやりたかった
ここからが、このブログでまだ書いたことのない話です。
僕が最初に思い描いていた将来は、レストランの料理人ではありませんでした。コーヒーが好きで、淹れるのも好きで、ジャズが好きで——だから、こう考えていたんです。
カフェを開いて、大好きなジャズのレコードを流していたら、それだけで幸せやん、と。

同じ頃、テレビでMondo Grossoがトマトソースの作り方を口で説明しているのを見て、パスタを作り始めていました(この話はトマト缶の記事で少し書きました)。コーヒーが好き。カフェをやりたい。でも料理も出したい。パスタもイタリア料理も気になる。ちょうど就職を考える時期に、それが全部、重なったんです。
エスプレッソだけは、家で作れなかった
カフェをやるにしても、当時の僕にはひとつだけ、家で再現できないコーヒーがありました。エスプレッソです。
マキネッタも、家庭用のマシンも存在は知っていました。ただ当時の僕は、本格的なエスプレッソに必要な圧力は家庭用では出しきれない、と理解していました(あくまで当時の僕の認識です)。

それなら——コーヒーも学べて、エスプレッソマシンにも触れて、料理も学べる場所に行けばいい。
そうして僕は、イタリア料理店に就職しました。僕の料理人人生は、コーヒーから始まっているんです。
最初の店は、元コーヒー店だった
できすぎた話ですが、本当です。僕が入った店の物件は、もともとコーヒー店でした。オーナーシェフはその前身の店でアルバイトをしていて、イタリアから帰ってきたタイミングでちょうど空いたその場所を借り、イタリア料理店を始めた——そういう経緯の店でした。
だからその店には、アイドルタイムがありませんでした。ランチ、カフェタイム、ディナーと、そのまま営業が続く。休む暇はほぼない。でも僕には、立派な2連式のエスプレッソマシンがあって、コーヒーが淹れられて、イタリア料理が学べる、願ったりの環境でした。

ただし、店のコーヒーには納得していなかった
ここも正直に書きます。働き始めてみると、コーヒーに関しては、店より僕のほうがこだわりが強かったんです。
エスプレッソの豆は、挽いた瞬間から鮮度が落ちる。だから必要な分だけ都度挽く——それが僕の知っていた基本でした。ところが店では、真ん中の粉受け(ドサー)を常に満タンにしておくよう指示された。しかも、上の豆のホッパーも満タンに。挽いた粉と豆、ダブルで鮮度が落ちていくのが、ものすごく気になった。すぐ使い切るならまだしも、毎日だいぶ残る。この件では、シェフと少し揉めました。

ペーパードリップも衝撃でした。ポットの湯をグラグラに沸騰させて、ほぼそのまま注ぐ。「それ、熱くないっすか?」と言った僕に、シェフはこう返しました。分かった、じゃあここに置いて、3秒してから入れよう——。
3秒でお湯が冷めるかい、と、心の中でツッコミました。
カプチーノのミルクも、いま思えばかなり自己流でした。僕のラテアートも、ハートを描くのが精一杯。あの店で学んだ料理の話は、まかない係になった話や山鳩の夜、浅野さんのワインの記事で、これまでたくさん書いてきました。でもコーヒーについては、僕の先生は店の外にいたんです。
つづく
そんな僕が、コーヒーの本や雑誌を読みあさるうちに、ひとりの焙煎人の存在を知ります。
その人は、バンに乗って日本中を回りながら、各地でコーヒーを淹れていました。数年後、僕はその人に、富山県砺波市の「本当にただの民家」で会うことになります。
次回は、その人——中川ワニさんの話です。
あわせて読みたい
あわせて読みたい
あわせて読みたい
今日の一曲
「カフェを開いて、大好きなジャズのレコードを流す」——あの夢の真ん中には、いつもこの曲がありました。エヴァンスが、幼い姪っ子のデビーのために書いた、小さなワルツです。
僕はエヴァンスが大好きで、この曲はいつかこのブログの「今日の一曲」に入れたいと、ずっと思っていました。コーヒーの原点の話以上に、ふさわしい場所はないと思います。
1961年6月、ニューヨークの小さなクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」でのライブ録音。グラスの音や、お客さんのざわめきも、そのまま入っています。コーヒーを淹れながら聴くと、あの夢見ていたカフェの席に、少しだけ座れます。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。













