ヤギ飼いのカルディは、たぶんいなかった|コーヒーの歴史①
コーヒーの話の、第8回です。ここから少し、趣向を変えます。
毎朝飲んでいるコーヒーが、どこから来たのか。自分で焙煎までするようになって、一度ちゃんと知っておきたくなりました。調べはじめたら、思っていたより、ずっと面白かった。そして、思っていたより、暗い話も出てきました。
先に、このシリーズの方針を書いておきます。いい話だけを書くつもりはありません。ただ、誰かを悪者にするために書くのでもありません。分かっていることを並べて、あとは読んだ人が考えればいい。そう思って書きます。
今回は、いちばん最初の話です。
ヤギ飼いカルディの話
コーヒーの本を開くと、たいてい最初に、こんな話が出てきます。
よく語られる、コーヒーのはじまり
むかし、エチオピアの高原に、カルディという若いヤギ飼いがいました。ある日、ヤギたちが赤い実を食べて、夜になっても跳ねまわっている。不思議に思ったカルディが自分もその実を食べてみると、体が軽くなって、眠気が消えた。
その実を修道院に持っていくと、僧たちは「悪魔の実だ」と火に投げ入れた。ところが、焼けた実から、なんともいい香りが立ちのぼった。僧たちはそれを煮出して飲み、夜の祈りで眠くならなくなった。これがコーヒーのはじまりである。

僕も、何度も読みました。焙煎を習ったころにも、どこかで聞いた気がします。コーヒー屋さんの壁に貼ってあったこともある。
ところが、この話が「いつ、どこで書かれたか」を調べてみると、少し様子が変わってきます。
その話は、いつ書かれたのか
ヤギ飼いの話が、いちばん古い形で出てくる本があります。1671年、ローマで出た本です。書いたのはナイローニという学者で、中東のキリスト教の一派、マロン派の人でした。
ここで、引っかかることが二つあります。
ひとつ。この本の原文では、主人公が「ラクダの世話をする者、あるいは別の説ではヤギの」となっています。ラクダなのかヤギなのか、書いた本人が決めかねている。そして舞台も、エチオピアではなく、アラビア半島です。
ふたつ。「カルディ」という名前が、この本には出てきません。あの名前が広まったのは、20世紀に入ってから。1922年にアメリカで出た『All About Coffee』という本からで、それより前の記録には見当たらないのです。
この本のことを、少し書いておきます。書いたのはユーカースという人で、コーヒーと紅茶の業界誌をつくっていた人でした。十七年かけて世界中を回って書いた、八百ページを超える大著です。歴史も、木のことも、育て方も、淹れ方も、機械のことも入っている。コーヒーの百科事典のような本で、いまも古典として読まれています。日本語にも訳されています。
整理すると、こうなります。コーヒーが飲まれはじめてから二百年以上たったころに、ヨーロッパで書かれた話。動物はどちらか分からない。場所も違う。名前は、さらに二百五十年あとについた。
作り話だと決めつけるつもりはありません。もとになった言い伝えは、あったのかもしれない。ただ、いちばんよく貼ってある話が、いちばん怪しい。これは、調べてみて面白かったところです。

では、本当はどこから来たのか
確かなことから書きます。まず、地理から。
コーヒーの木がもともと生えていたのは、アフリカの東側、エチオピアの高原の森です。いま世界中で育てられているアラビカ種は、すべてここの木から出ている。遺伝子の研究でも確かめられています。伝説の舞台がエチオピアになっているのは、たぶんこのせいです。木の故郷は、たしかにエチオピアでした。
ただ、飲み物として広まった場所は、そこではありません。エチオピアから紅海という細長い海をはさんで向かい側、アラビア半島の南の端にあるイエメンです。時代は15世紀。日本でいえば、室町時代のころです。

はじまりは、眠気だった
イエメンでコーヒーを広めたのは、スーフィーと呼ばれる人たちでした。イスラム教のなかで、祈りや瞑想をとくに大切にする一派です。
目的は、はっきりしています。夜通しの祈りで、眠らないためです。
ここは、読んでいていちばん腑に落ちたところでした。深夜まで働く厨房でも、みんなコーヒーを飲みます。理由は同じです。おいしいからでもあるけれど、まず、起きているため。六百年前の人が、同じ理由でこれを飲んでいた。

もうひとつ、面白い話があります。コーヒーを指すアラビア語の「カフワ」は、もともと酒を指す言葉だったと言われています。お酒を飲まない人たちの飲み物に、酒の名前がついた。眠気を払って気分を変える飲み物、という意味では、たしかに仲間なのかもしれません。
何度も禁止された
広まると、禁止されます。
イエメンの北、いまのサウジアラビアにあるメッカは、イスラム教の聖地です。そのメッカで、1511年、コーヒーが禁止されました。市場を取り締まる役人が実施したものです。面白いのは、その二年前には、同じ町の法学者たちが「飲んでよい」という判断を出していること。二年で、逆になった。
禁令は、このあとも何度も出ます。でも、どれも長続きしませんでした。公共の場では禁止、家で飲むのはよい。そんな形で、なし崩しになっていく。
読んでいて思ったのは、禁じられたのは飲み物そのものではなく、人が集まることだったのではないか、ということです。コーヒーを出す場所には、人が集まって、話をする。話は、どこへ転がるか分からない。
そして1554年、イスタンブールに最初のコーヒーハウスができます。イスタンブールは、いまのトルコの大きな町。当時はオスマン帝国という大国の都でした。開いたのは、シリアから来た二人の商人だったと伝わっています。

禁止と、その骨抜きと、また禁止。この繰り返しが、百年以上続きます。
料理をしていると、似た話に時々出会います。新しい食べ方が出てきたとき、まず警戒される。そのうち誰も気にしなくなる。コーヒーの場合は、それが国をまたいで、何百年も続いた。飲み物としては、なかなか激しい経歴だと思います。

ヨーロッパへ
ヨーロッパの入口は、イタリアのヴェネツィアでした。当時、東の国々と貿易をしていた港町です。
1575年、殺された織物商の持ち物の目録に、コーヒーが記されています。すでに、町の誰かが持っていたということです。
その少しあと、コーヒーについて書き残した人がいます。アルピーニという医師です。ヴェネツィアがエジプトのカイロに置いていた領事の、専属の医者でした。三年ほど現地で暮らして、エジプトの医学と植物を調べて帰ってきた人です。
その報告をまとめた本が、1591年に出ます。エジプトでは何をどう治療に使っているか、という内容の中に、コーヒーが出てきます。ヨーロッパの人がコーヒーの木について書いた、いちばん古い部類の記録です。
面白いのは、そこでの扱いです。嗜好品ではなく、薬として書かれている。焼いた種を煎じて飲むもので、体にこう効く、という調子です。ヨーロッパに最初に届いたコーヒーの情報は、おいしい飲み物ではなく、東の国の薬でした。
イングランドで最初のコーヒーハウスは、1650年のオックスフォード。ロンドンは1652年で、開いたのはパスクア・ロゼという人でした。パリのカフェ・プロコープは1686年。シチリア出身の人が開いた店です。
ここから、コーヒーハウスの時代が始まります。
一杯一ペニーの大学
当時のロンドンのコーヒーハウスは、「ペニー大学」と呼ばれたと伝えられています。
一杯一ペニー払えば、誰でも入れて、そこにいる人の話を聞ける。身分を問わずに議論に加われる。だから大学だ、というわけです。

呼び名そのものは、後の時代にきれいに語り直された可能性があります。ただ、一杯の代金で議論に参加できたという実態のほうは、確かなことのようです。
もうひとつ、大事な点があります。酒場ではないので、みんな素面だった。同じように人が集まる場所でも、そこが違う。
十一日で引っ込められた布告
集まって話をする場所は、やはり警戒されました。
1675年12月29日、イングランド王チャールズ2世が、コーヒーハウスを閉鎖する布告を出します。施行は年明けの予定でした。
この布告が、何を問題にしていたか。そこがはっきり書いてあります。近ごろコーヒーハウスが増えて、暇な者や不満を抱く者が大勢集まっている。商人たちは本業にあてるべき時間を、そこで浪費している。そして、こう続きます。
そうした店で、そうした人々が集まることによって、偽りの、悪意ある、中傷的な話が作られ、広められ、国王の政府の名誉を傷つけ、国の平穏を乱している
飲み物の害は、一言も出てきません。問題にされているのは、集まること、話すこと、そこで時間を使うことです。
ところが、1676年1月8日、施行される前に撤回されます。
十一日です。王の布告が、十一日で引っ込んだ。それだけコーヒーハウスが生活に食い込んでいた、ということだと思います。
保険と、株式市場と、コーヒー
ロンドンのコーヒーハウスからは、いまも残っているものが生まれています。
ひとつは、ロイズ。船の保険で世界的に知られる、ロンドンの保険の市場です。そのはじまりは、エドワード・ロイドという人のコーヒーハウスでした。1688年の新聞に、その店の名前が出てきます。船と積荷の情報が集まる店で、船主や商人がそこで話をするうちに、船が沈んだときの損を分け合う仕組みができていった。1734年には『ロイズ・リスト』という情報紙が出て、1771年に引受人の組合ができる。これはロイズ自身が、自分たちの成り立ちとして公式に書いていることです。

もうひとつは、ロンドン証券取引所。株を売り買いする場所です。ジョナサンズというコーヒーハウスに仲買人が集まり、1698年にはそこで株の値段の表が貼り出されるようになりました。
ただし、「コーヒーのおかげで金融が生まれた」と言うと、さすがに言いすぎだと思います。船の情報が集まる場所にあったこと。酒場と違って、素面で話せたこと。その二つが効いた、というくらいが、ちょうどいい見方でしょう。

教皇の洗礼も、たぶん作り話
もうひとつ、有名な話があります。
ローマ教皇クレメンス8世のところに、「コーヒーはイスラムの飲み物だから禁じてほしい」という声が届いた。教皇は一口飲んで、こう言ったという。「こんなにうまいものを異教徒だけのものにしておく手はない。洗礼を授けてやろう」。
これも、同じ時代の裏づけが見つかりません。広まった大もとは、さっきも出てきた1922年の『All About Coffee』で、しかも本人が「よく引かれる伝説」と書いています。
カルディといい、教皇の洗礼といい、僕たちが知っているコーヒーの起源の話は、その多くが20世紀のアメリカで一冊の本にまとめられたときの形で流通している。そう考えると、少し見方が変わります。
皮肉な話だと思います。コーヒーの世界でいちばん読まれた本が、いちばん有名な伝説を運んだ。しかも書いた本人は、ちゃんと「伝説」と断っていた。断り書きのほうが、先に落ちてしまったわけです。
この記事で読んだ本
『All About Coffee』は、英語の原著の著作権が切れています。全文がここで無料で読めます。八百ページ超、当時の写真や図版もそのまま入っていて、眺めるだけでも面白い本です。
日本語で読むなら、角川ソフィア文庫の抄訳が手に入りやすいです。完訳に近い1995年の版もありますが、いまは古書で三万円台でした(2026年9月に確認)。
少し開いてみました。まず、題名がいい。これ以上の題はつけようがないと思います。中身も、コーヒーへの愛と情熱があふれているのが、すぐに分かる。こんな本が無料で読めるのは、ありがたいことです。
なぜ、伝説ばかりなのか
調べながら、考えていたことがあります。
コーヒーは、誰か一人が発明したものではありません。木があって、実があって、誰かが煮て、誰かが焼いて、誰かが挽いた。長い時間をかけて、少しずつ形になった。
そういうものには、はじまりの一日がない。だから、あとから物語が要ったのだと思います。ヤギが踊った日。教皇が洗礼を授けた日。分かりやすい一日を、人が作った。
自分で手網を振ってみて、思うことがあります。あの手順は、一日で思いつくものではありません。火から離して水を抜く。近づけて、ハゼを待つ。どこで止めるかを決める。あれは、何百年ぶんの試行錯誤が固まったものです。名前の残らなかった人が、ずっと多い。
伝説が悪いとは思いません。ただ、僕には、事実のほうが面白い。眠らないために飲まれたこと。何度も禁止されたこと。王の布告が十一日で引っ込んだこと。全部、本当にあったことです。
言い伝えと、分かっていることを分けて読む。このやり方は、以前に古事記の記事を書いたときと同じです。遺跡は嘘をつかない、と書きました。コーヒーの場合は、古い本と、船の積荷の記録が、その遺跡にあたります。
次回は、豆がどうやって外へ出たか
ここまでは、まだ明るい話です。
コーヒーは長いあいだ、イエメンがほとんど独占していました。その豆が、どうやって世界中に広がったのか。次回は、その話を書きます。ここも伝説だらけで、面白いところです。
そして、その先に、あまり明るくない話があります。コーヒーが世界の飲み物になっていく過程で、何が起きていたのか。そこは、ごまかさずに書くつもりです。
いまのところ、こんな順番で考えています。
これから書くこと
① 伝説と、コーヒーハウス(今回)
② 豆は、どうやってイエメンの外へ出たのか
③ 誰が、その豆を摘んでいたのか
④ 燃やされたコーヒーと、いまの一杯の値段
⑤ 日本に来たコーヒー。出島から、缶コーヒーまで
今日の一曲
ノラ・ジョーンズで、「Don’t Know Why」。2002年の曲です。
世界中のカフェで、いまも流れています。コーヒーの店で鳴っている音、と言われて思い浮かべる一曲。
それに、この回にこれ以上ない題名だと思いました。なぜだか分からない。ヤギ飼いの名前がどこから来たのか。教皇が本当にそう言ったのか。分からないことだらけです。
分からないまま、六百年、みんな飲み続けている。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。











