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コーヒーの歴史、第3回です。

前回は、コーヒーがイエメンの外へ出て、世界の熱帯に広がった話を書きました。広がった理由は、勇気ではなく、値段でした。1762年のアムステルダムの相場で、カリブ海のサン=ドマングの豆は、モカの豆のおよそ3分の1の値段です。

今回は、その安さがどこから来たのかを書きます。

先に書いておくと、明るい話ではありません。コーヒーが世界の飲み物になっていく途中で、たくさんの人が、自分の意思とは関係なく、その豆を育てさせられていました。

誰かを悪者にしたいわけではありません。安く飲みたい人がいて、安く作る仕組みができた。その仕組みの中身を、できるだけ正確に書きます。数字には、何を数えたものかも添えます。

十八世紀のカリブ海の島の、山の急な斜面を切り開いたコーヒーの段々畑と朝霧、はるか下の海を描いた水彩
コーヒーは、山の斜面で作られた。

世界のコーヒーの、およそ半分

サン=ドマングは、カリブ海のイスパニョーラ島の西側。いまのハイチです。18世紀には、フランスの植民地でした。

カリブ海の地図と、イスパニョーラ島の拡大図。島の西側がフランス領サン=ドマング(いまのハイチ)、東側がスペイン領。山地とル・カップ、ポルトープランス、レ・カイの位置
サン=ドマングは、イスパニョーラ島の西側。いまのハイチ。

もともと、この島の主役は砂糖でした。コーヒーが広がったのは1763年以降です。平地の砂糖畑には大きな元手が要りますが、コーヒーは、涼しくて雨の多い山の斜面で、少ない元手で始められた。それで、山が次々に切り開かれていきました。

1755年に約700万ポンドだったコーヒーの輸出は、1790年には約7,700万ポンド。35年で11倍です。1789年、島のコーヒー農園はおよそ3,000。この島ひとつで、世界のコーヒーのおよそ半分を送り出していた、と言われます。

誰が、摘んでいたのか

1789年のサン=ドマングには、およそ46万5,000人の、奴隷にされた人たちがいました。白人は約3万人。自由な身分の有色人も、ほぼ同じくらいです。島に暮らす人の、およそ9割が、奴隷にされた人たちでした。

1789年のサン=ドマングの人口の内訳。奴隷にされた人たち約46万5,000人、白人約3万人、自由有色人約3万人。1765年から1791年に連れてこられた約50万人と、1791年直前の約45万人の比較
島に暮らす人の、およそ9割。

その人たちは、アフリカから連れてこられました。

大西洋をはさんだ奴隷貿易では、1525年から1866年までに、およそ1,250万人がアフリカで船に乗せられ、およそ1,070万人がアメリカ大陸に着いたと推計されています。航海のあいだに、およそ15パーセントの人が亡くなりました。

高校の授業で、スピルバーグの映画『アミスタッド』を見たことがあります。30年くらい前のことで、話の筋はもうはっきり覚えていません。でも、突然連れ去られた人たちが、船の狭い場所に、満員電車のように立ったまま詰め込まれて運ばれていく場面だけは、いまも覚えています。

人を売り買いして、運んで、それでお金を儲けていた。奴隷貿易という言葉そのものが、恐ろしいと思います。

大西洋の地図。アフリカ西部の沿岸から、サン=ドマングとブラジルへ連れて行かれた人たちの流れと、砂糖とコーヒーがヨーロッパへ運ばれた流れ。船に乗せられた約1,250万人、着いた約1,070万人
アフリカからアメリカ大陸へ。着いたのは、およそ1,070万人。

ひとつ、正確に書いておきます。連れて行かれた人のおよそ3分の2は、砂糖の畑で働かされました。コーヒーが中心だったのは、18世紀後半のサン=ドマングと、19世紀のブラジルの南東部です。

サン=ドマングには、1765年から1791年までの26年間だけで、およそ50万人が連れてこられています。ところが、1791年の直前、島にいた奴隷にされた人の数は、約45万人でした。

連れてこられた数ほどには、人は増えなかった。この島では18世紀のあいだずっと、亡くなる人の数が、生まれる人の数を上回っていました。

コーヒーの農園では、港から標高600〜900メートルの山まで歩かされ、森を切り開き、斜面に木を植え、実を摘み、手回しの機械で脱穀しました。そのすべてを、その人たちの手がやっていました。

赤く熟したコーヒーの実を枝から摘む、日に焼けた手と、腰の籠を描いた水彩
摘んだのは、その人たちの手だった。

島が、自分で終わらせた

1791年8月、島の北部で、奴隷にされた人たちが一斉に立ち上がりました。戦いは十数年続き、1804年1月、島は「ハイチ」として独立します。奴隷にされた人たちが、自分たちの手で自由を勝ち取った独立でした。

コーヒーの輸出は、1795年には約210万ポンドまで落ち込みます。1801年に約4,300万ポンドまで戻りますが、独立のあとは、革命前の半分前後にとどまりました。自由になった人の多くが、大農園で働くことを拒み、山の小さな畑を選んだからです。

サン=ドマング(ハイチ)のコーヒー輸出の推移を、数字が記録に残っている年だけ並べた棒グラフ。1755年約700万ポンド、1790年約7,700万ポンド、1795年約210万ポンド、1801年約4,300万ポンド、1818年約2,000万〜2,600万ポンド。あいだの年もコーヒーは作られていた
1791年の蜂起のあと、輸出は大きく落ち込んだ。

その後の話を、ひとつだけ書いておきます。

独立したあとも、フランスはハイチを国として認めませんでした。ほかの大国も同じで、ハイチは20年以上、世界の中で孤立します。

1825年、フランス国王が「独立を認める。その代わり、1億5,000万フランを5年で払うこと」という命令を出します。使者は、14隻の軍艦を連れてやってきました。ハイチは、受け入れるしかありませんでした。国際機関が決めたものではありません。当時は、国連のような仕組みもまだありませんでした。

名目は、元の植民者への「補償」です。植民者とは、フランスから移り住んで、農園を持っていた人たちのこと。革命で失った農園や「財産」の埋め合わせ、という意味でした。その「財産」には、奴隷にされていた人たち自身が数えられていました。自由を勝ち取った人たちが、自分たちの自由の代金を払わされたことになります。

金額は1838年に9,000万フランに減らされますが、ハイチは払うためにフランスの銀行からお金を借り、その返済も重なりました。ニューヨーク・タイムズの調査によると、1911年になっても、コーヒーにかけた税の3ドルのうち2ドル53セントが、フランスの投資家への返済に回っていたそうです。関係する借金の最後の返済が終わったのは、1947年でした。

命令からちょうど200年の2025年4月、フランスの大統領は、この支払いが「若い国の自由に値段をつけた」ものだったと、その不当さを認めました。フランスとハイチの歴史家が、一緒に調べる委員会もつくられています。

ジャワの「強制栽培」

前回、ジャワのコーヒーはモカより安かった、と書きました。その安さの中身です。

ジャワは、奴隷制とは仕組みが違います。オランダは、地元の首長を通して、農民にコーヒーの木を育てさせ、会社が決めた値段で差し出させました。1726年、その買い値は、1ピコル(約60キロ)あたり21リクスダールダーから、5リクスダールダーへ。4分の1以下に下げられます。理由は、農民が豊かになると武器を買う、という心配でした。

リクスダールダーは、オランダの銀の通貨の単位です。前回の話に出てきたメキシコの銀貨(スペインの8レアル銀貨)1枚と、ほぼ同じくらいの値打ちで数えられていました。大きな銀貨にして、21枚分が5枚分になった、というくらいの感覚です。

18世紀の終わりには、1世帯あたり1,000本の木の世話が義務になり、1811年からは、毎年200本の植え替えも加わりました。1830年からの「強制栽培制度」の中で、コーヒーはいちばん利益の出る作物になります。1850年には、ジャワの農民の56パーセントがコーヒーに割り当てられていました。強制的なコーヒーの納入が最後に行われたのは、1917年です。

西ジャワの地図と、強制栽培の数字。1726年に買い値が1ピコルあたり21リクスダールダーから5リクスダールダーへ、1世帯1,000本の世話の義務、1850年にジャワの農民の56%がコーヒーに割り当て
決められた本数を育て、決められた値段で差し出す。

小説の主人公の名前

1860年、オランダで一冊の小説が出ました。『マックス・ハーフェラール』。書いたのは、ジャワで役人をしていたダウエス・デッケルという人で、ムルタトゥーリという筆名を使いました。

副題は『オランダ商事会社のコーヒー競売』。ジャワ西部のレバクで、住民から取り立てる仕組みを告発しようとする役人の話です。語り手の一人は、アムステルダムのコーヒー仲買人でした。

書いた本人も、オランダの役人でした。1856年、レバクに着任したダウエス・デッケルは、住民への不当な取り立てを、すぐに上に訴えます。でも、聞き入れられませんでした。その年のうちに、彼は役人を辞めています。

小説を書いたのは、それから3年後、ベルギーのブリュッセルででした。筆名のムルタトゥーリは、ラテン語で「私は多くを耐えた」という意味です。小説の最後で、彼はオランダの国王に、直接呼びかけています。

のちに、インドネシアの作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールは、この本を「植民地主義を殺した本」と呼びました。

窓辺の古い木の机に、少し開いた革装の古い本と、コーヒーの生豆、白いカップを描いた水彩
1860年の小説の副題は『オランダ商事会社のコーヒー競売』。

それから128年後の1988年。オランダで、世界で最初のフェアトレードのラベルが生まれます。メキシコの小さなコーヒー農家の組合の呼びかけから始まったもので、その名前が「マックス・ハーフェラール」でした。

コーヒー摘みの人たちの苦しみに目を向けた、架空の人物の名前です。それが、摘んだ人にまっとうな対価を、というしるしの名前になった。この連載では名前の話を何度も書いてきましたが、これは、名前が残ってよかったと思える話です。

この記事に出てきた本

『マックス・ハーフェラール』は、日本語で読めます。ムルタトゥーリ著、佐藤弘幸訳。めこんという出版社から、2003年に出ています。

副題も、そのまま『もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』。世界で最初のフェアトレードのラベルに、名前を残した物語です。

ブラジル、最後まで

19世紀、コーヒーの中心はブラジルに移ります。はじめはリオデジャネイロに近いパライバ川の流域、やがてサンパウロへ。1850年ごろには、世界のコーヒーのおよそ半分をブラジルが作っていました。

ブラジルは、大西洋の奴隷貿易で連れてこられた人たちの、最大の行き先でもありました。およそ480万人。全体の45パーセントです。奴隷貿易は1850年に禁止されますが、奴隷制そのものは続きました。1870年代から80年代、奴隷にされた人の半分以上が、コーヒーの3つの州にいました。

1888年5月13日、ブラジルは奴隷制を廃止します。アメリカ大陸で、いちばん最後でした。

奴隷制が終わった年。アメリカ大陸の地図と年表。1804年ハイチ、1834年イギリスの植民地(ジャマイカなど)、1848年フランスの植民地(マルティニークなど)、1865年アメリカ合衆国、1886年キューバ(スペインの植民地)、1888年ブラジル。アメリカ大陸は北アメリカ・カリブ海・南アメリカのぜんぶで、アメリカ合衆国とブラジルは別の国
ブラジルの廃止は1888年。アメリカ大陸で、いちばん最後だった。

そのあとに来た人たち

奴隷制が終わったあと、コーヒー農園の働き手として、ヨーロッパから移民が集められました。1888年から1900年までに、およそ150万人。いちばん多かったのはイタリアの人たちです。

そして1908年6月18日の朝、日本からの船がサントスの港に着きます。笠戸丸です。4月28日に神戸を出て、51日。乗っていた契約移民は781人。沖縄から325人、鹿児島から172人。家族で行くことが条件だったので、血のつながらない人を家族に見立てた「構成家族」もありました。

1908年春の神戸港。岸壁に停泊した蒸気船と、旅立つ人と見送る人々の後ろ姿を描いた水彩
1908年4月28日、笠戸丸は神戸を出た。

行き先は、サンパウロ州の6つのコーヒー農園でした。

国立国会図書館の資料には、こうあります。あてがわれた家には床板もなく、土間に寝た。その年は不作で、着いたのは収穫の途中、木も古く、思うように稼げなかった。20年前まで続いた奴隷制のころのやり方を、変えていない監督もいた。

1908年の暮れの視察で、最初の6つの農園に残っていたのは359人。翌年の秋には239人になっていました。

笠戸丸の航路(神戸からサントスまで51日)と、サンパウロ州とリオデジャネイロのあたりの拡大図。契約移民781人の内訳と、最初の6つの農園に残った人数の変化
神戸からサントスまで51日。行き先は、サンパウロ州のコーヒー農園だった。

この移民の船を組んだのは、水野龍という人です。彼はそのあと、サンパウロ州から宣伝用のコーヒー豆を無償で受け取る契約を結び、1911年、大阪の箕面と、東京の銀座に「カフェーパウリスタ」を開きました。日本にコーヒーが広まっていく話は、この連載の最後の回に書きます。

名前の残らなかった人たち

コーヒーの袋には、港の名前が残りました。モカ、ジャワ、サントス。

でも、その豆を摘んだ人たちの名前は、ほとんど残っていません。サン=ドマングの山で、ジャワの村で、ブラジルの農園で。

奴隷制のことは、教科書では知っていました。でも、コーヒーの歴史として、数字まで見たのは初めてでした。連れてこられた数ほどには、人は増えなかった。正直、言葉が出ませんでした。

そして、これは本当に終わった話なのか、とも思います。

2025年、ブラジルでは2,772人が「奴隷に類する労働」から救い出されました。そのうち184人は、コーヒー畑にいた人たちです。

まとめの図。サン=ドマング、ジャワ、ブラジルのコーヒーと、それを作った人たちの要点
袋に残ったのは、港の名前だった。

フェアトレードが広まっていることは知っています。でも、どこまでがちゃんとした値段でやり取りされているのか、僕には分かりません。

飲むのをやめよう、という話ではありません。ただ、コーヒーを飲む人は、知っておかないといけないことだと思います。

次回は、燃やされたコーヒー

1931年から1944年にかけて、ブラジルは売れ残ったコーヒーを燃やしました。その量、7,820万袋。

次回は、コーヒーの値段の話です。いまの一杯の値段のうち、豆を作った人の手元に残るのは、どれくらいなのか。フェアトレードの値段のことも、次回、調べてみます。

今日の一曲

進藤宏希さんで、「なまえ」。

シンガーソングライターの進藤宏希さんが、大切な友人だった相羽崇巨さんのことを思って作り、相羽さんに歌ってもらうために贈った歌です。この動画は、そのとき進藤さんが自宅で録って、相羽さんに送ったものだそうです(2022年1月)。

相羽さんは、筋ジストロフィーと向き合いながら、ステージに立ち続けた「呼吸器シンガー」でした。僕も3年間、一緒に曲を作らせてもらった人です。2023年12月、29歳で亡くなりました。

実は、僕がこの歌を知ったのは、相羽さんが亡くなったあとでした。相羽さんのトリビュートライブに、子どもたちと一緒に、相羽さんが作ってくれた歌を歌いに名古屋まで行ったときのことです。相羽崇巨バンドで、進藤さんがこの歌を歌っていました。

そこで初めて知りました。進藤さんが相羽さんに贈った歌で、相羽さんが気に入って、最後に歌詞を書き足して、ライブで歌っていたこと。素晴らしい歌だと思って、耳でコピーして、自分でも録音しました。

相羽さんが最後に書き足したのは、この一節です。

あなたが旅立つ日は
僕のクセにも名前がついて
あなたが歩んできた
その道に名前をつけてあげよう

進藤宏希「なまえ」(作詞・作曲 進藤宏希/この一節の作詞 相羽崇巨)より

歩んできた道に、名前をつける。進藤さんの歌詞にはない、相羽さんが自分で足した言葉です。

この回は、名前の残らなかった人たちの話でした。その中で、役人を辞めてまで書かれた一冊の小説の主人公の名前が、128年後に、摘む人にまっとうな対価を、というしるしの名前になった。名前の回に、この歌を置きたいと思いました。

僕が歌った「なまえ」も、SoundCloudに置いてあります。

相羽さんとのことは、こちらに書きました。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。