豆は、どうやってイエメンの外へ出たのか|コーヒーの歴史②
コーヒーの歴史、第2回です。
前回は、コーヒーの木がエチオピアの森で生まれて、イエメンで飲み物になり、二百年かけてロンドンまで来た話を書きました。ヤギ飼いの話は、たぶん作り話でした。
今回は、その続きです。コーヒーは長いあいだ、イエメンだけが作っていました。それがどうやって世界中に広がったのか。
ここも、伝説だらけです。イエメンが豆をどう守っていたか、という話が一つ。豆を運んだ人の話が四つ。前回と同じように、まず有名な形で語ってから、それぞれ何が分かっているかを書きます。
国や町の名前がたくさん出てくるので、ところどころに地図を置きました。

イエメンという、小さな独占
まず、独占といっても、どのくらいの規模だったのか。
研究者の計算では、18世紀に入ってもイエメンの年産は一万二千トンから一万五千トンほどです。いまの世界の生産量の、およそ千分の一。大きな農園があったわけではありません。小さな区画に、食べるための作物と混ぜて植える。山の斜面に段々畑を切って、雨水と、ところどころ貯水池からの水で育てる。そういう畑の集まりでした。
豆は山を下りて、海沿いの港から船に載ります。その港の名前がモカです。いまでも「モカ」はコーヒーの代名詞のように使われますが、もともとは港の名前で、モカの町でコーヒーは育ちません。

買いに来ていたのは、カイロやイスタンブールの商人です。取引を仕切っていたのは、インドから来た商人たち。そして代金は、メキシコの銀貨で支払われていました。
メキシコ、と急に出てくるので、少し寄り道します。
当時、世界で使われていた銀は、その多くがメキシコとペルーの銀山から出ていました。1500年から1800年までに世界で採れた銀の、およそ八割です。そこで打たれた「8レアル銀貨」は、重さも銀の割合もそろっていて偽物が作りにくく、南米からアジア、中東まで、そのまま通じました。国をまたいで、いちばん信用されていたコインです。
しかもヨーロッパの商人には、アジアや中東で売れる自国の品が、ほとんどありませんでした。だから、買い物の代金は銀で払うことになります。イギリス東インド会社の場合、1660年から1720年のアジア向け輸出のうち、79パーセントが地金と銀貨でした。
モカも同じです。山の集荷市場では、現金はスペイン銀貨だけを受け取りました。イエメンの側から見れば、コーヒーは、山の畑まで銀貨を運んできてくれる作物だったわけです。

さて、18世紀に入ると、ヨーロッパの船も直接買いつけに来ます。ただし、大きな客ではありませんでした。1719年のイギリス東インド会社の見立てでは、モカから出ていく豆のうち、ヨーロッパ向けは八分の一ほど。残りは中東やインドへ行きます。1732年の記録には、山の市場で「一人の商人が、ヨーロッパ勢を全部合わせたのと同じだけ買っていく」とあります。
そのうえ、まとめ買いができません。豆は、小さな畑の農民が少しずつ市場へ持ってきます。値段が気に入らなければ、持ってこない。船いっぱいの量を一度に用意してくれる相手は、どこにもいないのです。
フランスの商人が1708年に初めて直接買いつけに来たとき、船倉をいっぱいにするのに六か月かかりました。歴史家は、こう書いています。彼は買い手というより、拾い集める人だった。

ここまでを、一枚にまとめます。

「煮てから外に出した」という話
まずは、イエメンが豆をどう守っていたか、という話から。
よく語られる話
イエメンの人々は、コーヒーの独占を守るため、豆を煮るか焙煎するかして、芽が出ないようにしてから国の外へ出していた。だから外国人は、豆を手に入れても、育てることができなかった。
この話、僕もどこかで読んだ記憶があります。
調べた結果は、こうです。研究者の本には、出てきません。いちばん広く引かれている出どころは、前回も出てきた1922年の『All About Coffee』で、しかも典拠が書かれていない。1727年にロンドンで出た、コーヒーの木についての本には「アラビアの人々があらゆる手を尽くして持ち出しを防いだ」とは書いてあります。でも、煮たとも焼いたとも書いていない。
「厳重に守られていた」というイメージは、たしかに古くからあった。それが、いつのまにか「煮ていた」という具体的な話になった。そういう順序のようです。
そして、この話がなくても、豆は外へ出ていきました。
一つ目の伝説。七粒の豆
よく語られる話
1600年代、インドのイスラム僧ババ・ブーダンがメッカへの巡礼の帰りに、イエメンで七粒のコーヒーの種を手に入れ、髭の中(または腹に巻いた布の中)に隠して持ち帰り、南インドの山に植えた。七は、イスラムで縁起のよい数だった。
分かっていることから書きます。南インドのチクマガルールという場所に、ババ・ブーダンの名前がついた山があり、廟があります。これは本当です。インドのコーヒーがこのあたりから始まったという話は、インド政府のコーヒー庁(1942年からある役所です)も、いまも「伝説」として紹介しています。

ただし、細部は揺れます。年代は1600年とも1670年とも1695年とも言われる。そして1922年の『All About Coffee』には、七粒という数も、髭に隠したという話も、出てきません。髭の話は、1990年代の終わりから2000年代にかけての一般向けの本を通して定型になったようです。「七は縁起のよい数」という説明にいたっては、出どころが見つかりませんでした。
骨組みは古くて、たぶん本当に近い。飾りは新しい。前回のカルディと、同じ形です。
二つ目。オランダ人は、盗んだのか
よく語られる話
1616年、オランダの商人がモカからコーヒーの木をこっそり持ち出し、アムステルダムの温室で育てた。その苗が、オランダの植民地だったジャワ島に運ばれ、コーヒーの大農園が始まった。
ここは、同じ時代の記録が残っています。1727年のロンドンの本が、事情を知る人の話として、こう書いています。
アムステルダムの市長だったヴィットセンという人が、ジャワにいるオランダの総督に何度も手紙を書いて、モカから新鮮な種を取り寄せてジャワで育てさせた。そして育った苗の一本を、アムステルダムの植物園に送った。当時すでに「木を丸ごと盗み出した」という説があったようで、その本は「真相は別だ」と、わざわざ退けています。

つまり、盗んだのではなく、取り寄せた。手紙を書いて、頼んで、船で運んだ。派手さはありませんが、こちらのほうが記録に近い。
いまの研究者の本には、少し違うことが書いてあります。ジャワに最初に届いた苗は、インドの西海岸、マラバル海岸から来た。1696年のことです。この苗は地震と洪水で駄目になったと伝わり、1699年に、同じマラバルから二度目の苗が届いて、こちらが根付きました。
インドの西海岸でコーヒーが育っていたのは、アラビアから誰かが持ち込んだからです。一つ目の伝説と同じ、南インド。ババ・ブーダンの話は、その「誰か」の記憶だったのかもしれません。
種がモカから来たのか、苗がインドから来たのか。そこは資料によって食い違います。でも、大事なところは一致しています。ジャワが先で、アムステルダムがあと。1706年ごろ、ジャワで採れた豆の見本と、そこで育った木が、アムステルダムに届きました。
よく語られる話は、ここが逆さまです。先にアムステルダムの温室があって、そこからジャワへ運んだ、という順番になっている。

五年で、入れ替わった
ここからは、数字で追えます。
1721年、アムステルダムに入ってきたコーヒーの九割は、モカ産でした。五年後の1726年、九割がジャワ産になっています。

わずか五年です。イエメンの独占が崩れたのは、誰かが豆を盗んだからではありません。オランダが自分の植民地で作りはじめたら、そちらのほうが安くて、量があった。アムステルダムの取引所の相場を見ると、1730年代のジャワ産は、モカ産のおよそ5〜8割の値段です。それだけの話でした。

もう少し言うと、ヨーロッパの人たちは、イエメンから買うのをやめたのではなく、自分で作ったほうが安いことに気づいた。ここが、次回以降の話につながっていきます。
王様の温室
アムステルダムの植物園に届いた苗は、そこで増やされました。
1714年、アムステルダムの市参事会が、実のなる大きな木を一本、フランスの王ルイ14世に贈ります。木はパリの王立庭園の温室に置かれました。記録によると、それ以前から小さな株はパリにあったようですが、実のなる木はこれが初めてでした。
ここから、フランスの話が始まります。
三つ目。海を渡った一本の苗
よく語られる話
フランスの海軍士官ド・クリューは、パリの温室からコーヒーの苗を一本持ち出し、カリブ海のマルティニーク島へ向かった。航海中、海賊に襲われ、嵐に遭い、飲み水が底をついた。彼は自分の飲み水を苗に分け与えて守り抜き、島に着いた一本の苗が、カリブ海と中南米のコーヒーの祖先になった。

この話は、本人が書いた手紙が残っています。1774年に雑誌に載ったものです。
手紙には、たしかに「水を分けた」と書いてあります。船に嫉妬深い男がいて、苗の枝を折られた、という話も書いてある。ただし、海賊と嵐は、手紙に出てきません。その二つは、1922年の本で加わったようです。
歴史家の評価は、はっきりしています。「おそらく作り話」。理由は、個人の英雄的な行いを強調しすぎている、というものです。実際には、フランスの国家はこのころ、植民地でのコーヒー栽培をむしろ抑えようとしていました。それに、ド・クリューが島に着いたのは1720年か1723年ですが、南米のオランダ領スリナムには1710年代に、隣のフランス領ギアナにも1719年ごろには、すでにコーヒーが入っています。彼は最初ではなかった。
島に着いた苗は、自分の土地に植えたそうです。のちにサン=ドマング(いまのハイチ)にも苗を送った、と本人が書いています。

水を分けた、というところだけは、本人が書いている。それで十分いい話だと、僕は思います。
四つ目。花束の中の種
よく語られる話
1727年、ブラジルの役人パリェタは、国境の話し合いのためにフランス領ギアナへ派遣された。フランス側はコーヒーの持ち出しを固く禁じていたが、パリェタは総督夫人と親しくなり、帰りぎわに夫人から贈られた花束の中に、コーヒーの種と苗が隠されていた。これがブラジルのコーヒーの始まりである。

派遣は本当です。1727年2月20日、川の国境をめぐる話し合いのために、パリェタはフランス領ギアナへ送られました。

そして、本人が国王に出した書類が残っています。1733年の手紙には、千粒を超える種と、四本の苗を手に入れた、とある。1734年の記録に残る願い書では、こうです。自分のお金を使って、千粒あまりの実と、五本の苗を持ち帰った。実は町の役人に渡して住民に分けてもらい、苗は、いまでは州にたくさん増えている、と。
自分のお金で手に入れた、と書いてあるのです。総督夫人の話は、公文書には一切出てきません。ちなみに当時、パリェタは57歳、夫人は50歳でした。
盗んだ、誘惑した、という話より、自分のお金で手に入れた、のほうが記録に近くて、僕にはこちらのほうが面白い。豆は商品でした。売る人がいて、買う人がいた。
仕入れの話に置き換えると、腑に落ちます。僕が知らない食材を使いはじめるとき、たいていは誰かが売りに来て、値段を聞いて、買います。劇的なことは、何も起きません。それでも何年か経つと、それが当たり前の顔をして厨房にいる。コーヒーが世界に広がったのも、たぶん、そういう積み重ねでした。
豆が渡った順番
整理すると、こうなります。

1690年代の終わりから、およそ三十年のあいだに、コーヒーの木はアジアとインド洋の島とカリブ海と南米に散らばりました。運んだのは、盗人でも英雄でもなく、会社と船と、手紙でした。
独占の終わり
イエメンはどうなったか。
1770年代には、カイロの市場でサン=ドマング産のコーヒーが、安さでイエメン産を押しのけていきます。1814年には、旅行者が「トルコの市場は西インド産に席巻されている」と書き残しています。1840年ごろには、イエメンのコーヒーは、世界で飲まれる量の二、三パーセントになっていました。
港としてのモカも、役目を終えます。沖に砂がたまって大きな船が入りにくくなり、1839年にイギリスが南のアデンを開いてからは、船はそちらへ向かうようになりました。
ここで、僕は一つ疑問に思いました。イエメンが値段で負けたのは、税金が高すぎたからなのか。
調べてみると、そうではありませんでした。モカの港の関税は、ヨーロッパの会社ならわずか3パーセント。イスラム教徒やヒンドゥー教徒の商人でも、5〜7.5パーセントほどです。イエメンの豆が高かったのは、税のせいというより、山の小さな畑では量がすぐには増えないところへ、ヨーロッパからの注文が押し寄せたからでした。
重い税は、むしろ飲む側の国にありました。イギリスでは、コーヒー1ポンドに2シリングの税がかかっていました。モカでの買い値の、2倍を超える額です。そして1732年、自分の植民地で作った豆にだけ、その税を軽くしています。
そもそも、植民地の豆ははじめから安かった。ジャワでは農民に栽培を強いて、安く買い上げていました。カリブ海の農園で働かされていたのは、奴隷でした。この話は、次回くわしく書きます。先に書いたカイロの話も、大西洋と地中海を越えて運んだうえでの安さでした。

小さな畑の集まりが、大きな農園に負けた。値段と、量で。それが、独占の終わりでした。名前だけが、いまも残っています。
なぜ、また伝説なのか

四つの話を並べて、気づいたことがあります。
伝説のほうは、どれも一人の人間の物語です。七粒を隠した僧。木を盗んだ商人。水を分けた士官。花束の中の種。分かりやすくて、語りたくなる。
記録のほうは、市長の手紙、会社の帳簿、国王への願い書、船倉に六か月。地味です。でも、こちらには値段と量が書いてある。コーヒーが世界に広がった本当の理由は、勇気ではなく、値段でした。
そして、その安さは、どこから来たのか。次回は、そこを書きます。
次回は、誰が豆を摘んでいたのか
ジャワでも、サン=ドマングでも、ブラジルでも、コーヒーは大農園で作られるようになりました。イエメンの小さな畑より、はるかに安く。
なぜ安かったのか。誰が、その豆を摘んでいたのか。サン=ドマングという名前を、覚えておいてください。次回の主役です。ここからが、明るくない話になります。
今日の一曲
デューク・エリントン楽団で、「Caravan」。1937年の録音です。
キャラバンは、隊商のこと。今回の話で、中東へ向かう豆は、巡礼の隊商に運ばれ、たくさんの仲買いの手を通ることが多かった。
作ったのは、エリントン楽団のトロンボーン奏者、フアン・ティゾル。カリブ海のプエルトリコの生まれです。砂漠を行く隊商の曲を、カリブ海の人が書いた。アラビアから、カリブ海へ。今回の豆と、同じ向きの旅です。
この曲は、僕の大好きな曲です。ジャズ研にいたころ、何度も演奏しました。思い出の一曲です。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。










