遺跡は、嘘をつかない|銅剣358本と、ザリガニ釣りの公園
出雲に、僕が何度も行っている公園があります。
夏はハスの花を見に行くし、池でザリガニ釣りもする。息子の保育園の遠足でも行きました。広い芝生があって、竪穴住居のレプリカがあって、のんびりできる、いい公園です。
最初に行ったとき、僕はその公園のことを、何も知りませんでした。奥のほうに建物があるのを見て、「なんか建物あるなあ」くらいに思っていました。
その公園の名前は、荒神谷(こうじんだに)史跡公園といいます。
1984年の夏、ここから銅剣が358本出てきました。それまでに日本全国で出土していた銅剣の総数を、この谷ひとつが超えた——日本の古代史の教科書を書き換えた場所に、僕は何も知らずに、ザリガニ釣りに行っていたのです。
古事記を紐解くシリーズ、第2回。今回は神話ではなく、土の中から出てきた「嘘をつかないもの」の話です。第1回のヤマタノオロチの記事で、神話という「物語」を追いかけました。今回はその答え合わせです。
先に、この記事の結論を1枚にしておきます。

「なんか建物あるなあ」くらいで、見ていた
まず、僕の話から始めさせてください。
最初に荒神谷に行ったとき、僕は銅剣のことを何も知りませんでした。遊びに行っただけです。
広い芝生。竪穴住居のレプリカ。大きな池。夏には一面のハスの花。子どもを連れて行くには、最高の場所です。
最初は、古代ハスを見るために、毎年のように通っていました。ある年、博物館の入口のあたりで、ザリガニ釣りの道具とバケツを貸し出していることに気づきました。長男が2歳、次男が0歳でベビーカーに乗っていた頃です。長男はまだザリガニと言えなくて、「ザリ、ザリ」と呼んでいました。それでも「やるやる」となって、そこからザリガニ釣りが定番になりました。
やってみると分かるのですが、ザリガニ釣りは、釣ることよりも、まず探すことが難しい。ハスの田んぼの手前側をのぞきこんで、いそうな場所に餌をぶら下げる。ハスのピンク、花の真ん中の黄色、葉っぱの緑、芝生の緑。あの色彩の中で、親子でずっと水面をのぞきこんでいました。

息子の保育園の遠足でも、ここに来ました。遊具よりも自然と遊ぶことを大切にする保育園で、遠足でも博物館には入りません。池の周りをずっと歩いて、竪穴住居のある広場で遊んで、最後はレプリカの前でお弁当。それくらい、「遊び場」として完成された公園なのです。


敷地の奥に建物があるのは知っていました。でも、「なんか建物あるなあ」くらいで、素通りしていました😅
あるとき、なんかのきっかけで、その建物——荒神谷博物館に入ってみたんです。
圧巻!!でした。
何も知らずに遊んでいた芝生の公園が、その日から、まったく違う場所に見えるようになりました。この記事は、その「違う場所に見えるようになるまで」を、順番に書いたものです。
一片の須恵器から、すべてが始まった
物語の始まりは、1983年です。
このあたりで広域農道を建設することになり、その前に、遺跡がないかどうかを確かめる分布調査が行われました。道路を作る前の、いわば下調べです。
その調査の途中、ひとりの調査員が、田んぼの畦(あぜ)で、一片の土器のかけらを拾いました。須恵器(すえき)という、古墳時代の焼き物のかけらでした。

田んぼの畦に落ちていた、一枚のかけら。普通なら、誰も気に留めません。実際、そこは棚田の広がる、静かな谷あいの農村でした。
でも、このかけらがきっかけになって、翌年、この谷の発掘調査が行われることになります。

ちなみに「荒神谷」という名前は、発掘地のすぐ近くに三宝荒神(さんぽうこうじん)という神様が祀られていることから付きました。住所は出雲市斐川町の神庭(かんば)。神の庭、と書いて、かんば。昔からある地名です。
もちろん、地名は偶然かもしれません。でも、銅剣が出たあとでこの地名を知ると、少しぞくっとしませんか。
え! まだある! まだある!
1984年7月。谷の斜面を掘り始めた調査団は、とんでもないものに突き当たります。
銅剣です。それも、1本や2本ではない。斜面に、整然と並べられた状態で、銅剣が次から次へと現れました。

最終的な数は、358本。
この数字がどれだけ異常だったか。当時、日本全国で出土していた銅剣の総数が、約300本でした。全国の研究者が何十年もかけて積み上げてきた数を、出雲の小さな谷ひとつが、一度に超えてしまったのです。

僕はこの発掘の場にいたわけではありません。でも、歴史博物館で展示を見たとき、思ったんです。
発掘した人は、鳥肌が止まらなかっただろうな。
え! まだある! まだある! って、
掘り出したんだろうな、と。
掘っても掘っても、まだ出てくる。自分の手の下から、教科書が書き換わっていく。発掘に人生を懸けてきた人にとって、これ以上の瞬間はなかったと思います。
そして、埋まり方が、また尋常ではありませんでした。358本は、谷の斜面を削って作った平らな段の上に、刃を起こした状態で、4列に、整然と並べられていたのです。放り込んだのではありません。一本一本、向きを揃えて、置いてある。
358本を、この丁寧さで埋める作業を想像してみてください。何人で、何日かかったのか。少なくとも「要らなくなったから捨てた」という埋め方では、ないのです。
7メートル隣に、まだ眠っていた
話はここで終わりません。
翌1985年の7月、銅剣が出た場所からわずか7メートルほど離れた地点から、今度は銅鐸(どうたく)が6個、銅矛(どうほこ)が16本、まとまって出てきました。
銅鐸と銅矛が同じ場所から出土したのは、全国で初めてのことでした。
こちらも、埋め方が丁寧でした。銅鐸は、吊り手(鈕)を向かい合わせにして2列に。銅矛は、矛先が交互になるように揃えて、寝かせて。まるで、しまい方の決まった道具箱のようです。
銅鐸は近畿を中心に使われた祭りの道具、銅矛は九州を中心に使われた祭りの道具——ざっくり言うと、そう考えられていました。その「東の文化」と「西の文化」が、出雲の同じ谷に、並んで埋められていた。出雲がただの田舎ではなく、東西の文化が出会う特別な場所だったことを、土の中の実物が示したのです。
荒神谷から出た銅剣358本・銅鐸6個・銅矛16本、あわせて380点は、のちに(1998年)まとめて国宝に指定されました。

じゃあ、この三つは、どこで作られたのでしょうか。
実は、この谷で作られたものは、たぶん一つもありません。荒神谷では、青銅器を作った跡(工房の痕跡)は見つかっていないのです。ここは「作った場所」でも「使った場所」でもなく、「埋めた場所」でした。
銅剣は、50cm前後の「出雲型」と呼ばれる型。この型はほぼ出雲にしか無いので、地元で作られたという説が有力です(ただし鋳型はまだ見つかっておらず、確定ではありません)。銅鐸の中には、徳島や京都で見つかった銅鐸と同じ鋳型で作られた「兄弟」がいます。つまり、遠くから運ばれてきた。そして銅矛は、九州でさかんに作られた型です。
その銅矛には、鳥肌の立つ事実があります。16本すべて、柄を差し込む筒の中に鋳型の土が残ったままだったのです。柄も付けず、一度も使われないまま、埋められていた。
出雲の剣と、近畿方面から来た鐘と、九州の型の矛。三方向から集まったものが、ひとつの谷に、まとめて埋められている。「東西の文化が出会う場所」というのは、比喩ではなく、土の中の配置そのものなのです。

もうひとつ。358本の銅剣のうち348本の根元には、小さな「×」印が刻まれていました。そして12年後に見つかる加茂岩倉の銅鐸39個のうち14個にも、同じ「×」印が確認されています。山をひとつ隔てた二つの遺跡に、同じしるし。同じ集団が、まとめて管理していたのかもしれません。×の意味は、いまも分かっていません。
壁一面の銅剣を、見た
その銅剣358本は、いま、出雲大社のすぐ隣にある島根県立古代出雲歴史博物館に、全部まとめて展示されています。
僕はそれを見ました。

圧巻でした。壁一面に、銅剣がずらっと並んでいる。緑青に覆われたもの、状態のいいもの、さまざまですが、とにかく数の暴力です。358本という数字を知識で知っているのと、壁一面の実物を目の前にするのとでは、まったく違いました。
そして、見ながら思いました。
これだけのものを作らせて、集めて、埋めさせた——
国レベルの組織が、ここにあったことは、
まず間違いないやん、と。
これは学者の言葉ではなく、素人の僕の率直な感想です。でも、青銅器を358本も作るには、材料を手に入れる力、職人を養う力、そしてそれを一か所に集めて「埋める」と決められる力が要ります。目の前の壁一面が、そういう力の存在を、理屈抜きで納得させてくるのです。
もっと言うと、僕はこう想像しています。荒神谷の銅剣。加茂岩倉の銅鐸。出雲にしかない形のお墓(四隅突出型墳丘墓)。これだけ揃うと、古代の出雲には、いまの大阪や東京みたいに栄えていた時代があったんじゃないか——と。もちろん、僕の勝手な想像です。でも、壁一面の前に立つと、そう思いたくなるんです。
📚 事実と、感想と、謎
銅剣358本・銅鐸6個・銅矛16本が出土し国宝に指定されたのは【考古学的事実】。「国レベルの組織があったはず」は【僕の感想】。そして、誰が・なぜ・これだけのものを埋めたのかは、いまも分かっていません。祭りのためか、隠したのか、捨てたのか——研究者の間でも結論は出ていない【謎】のままです。
遺跡は、嘘をつかない
僕が考古学のこういう話を面白いと思う理由は、はっきりしています。
恐竜の化石とかもそうだけど、
銅剣とか銅鐸とか、遺跡とかって、
人が作った物語とかと違って、
嘘をつかない(つけない)から面白い。
古事記は、人が書いたものです。ヤマタノオロチの神話も、語り継がれるうちに形を変えてきたはずです。朝廷の都合で書き換えられた部分も、きっとあります。物語は、嘘をつけてしまう。
でも、土の中から出てきた358本の銅剣は、嘘をつきません。「弥生時代の出雲に、これだけのものを作って埋めた人たちがいた」——この一点だけは、誰にも動かせない。どんなに古事記が出雲を「神話の国」として描いても、荒神谷の銅剣は「実在の国」の物証として、そこにあり続けます。
神話の中に封じ込められていた出雲を、考古学が実在に引き戻した。1984年の夏は、そういう夏だったのだと思います。
そして面白いのは、嘘をつかない遺跡が、かえって謎を深くしていることです。誰が埋めたのか。なぜ埋めたのか。物語なら答えを書いてくれるのに、遺跡は事実だけを差し出して、黙っている。その沈黙の分だけ、想像の余地がある。僕はそこが好きです。
何も知らずに、遊んでいた
話を、あの公園に戻します。
荒神谷史跡公園には、いまも銅剣が出た斜面が保存されていて、実際に見ることができます。僕も、遠足の子どもたちと一緒に、結構急な階段を登って見に行きました。山あいの、なんでもないような斜面。でもそこに立つと、いま目の前にあるこの場所で、2000年前の人たちが358本を並べて埋めた——現在の風景と大昔の人が、すっとつながる感覚がありました。


そして、竪穴住居のレプリカ。あれは、銅剣が埋められた頃の弥生人の暮らしの復元でした。実はこのレプリカ、中に入れます。

入って驚いたのは、まず入口です。めちゃくちゃ低くて、狭い。中も思ったより狭くて、屋根が斜めに下りてくるので、立てるのは真ん中だけ。窓がないから、昼間でも入口からの光しか入らず、けっこう暗い。最初に入ったとき僕は、ここで生活するのは大変やなあ、主に寝るための場所だったのかなあ——と想像していました。
でも、この記事のために上の断面図を用意していて、気がつきました。真ん中に、炉があるんです。弥生時代、火はとっくに人の暮らしの中にありました。あの真ん中で火を焚けば、明かりになり、暖房になり、調理場になる。暗い穴だと思っていた空間は、火を灯した瞬間に、ちゃんと「家」として機能する。窓がないのも、寒さと風を防ぐためだと思えば納得がいきます。火を扱う仕事を20年やっているくせに、火のことを忘れていました😅

学校の資料集で竪穴住居の図を見るのと、実際に中へ入ってみるのとでは、まったく違いました。「知ると、見える」ならぬ、「入ると、分かる」。あれが体験できる場所は、そんなに多くないと思います。

池のハスも、ただのハスではありませんでした。弥生の遺跡にちなんで植えられた、約2000年前の種から現代によみがえった系統のハス(大賀ハス)です。6月の終わりから7月、池は一面のピンクになります。僕の写真を見返すと、6月末には、池のまわりの紫陽花と同時に咲いていました。


何も知らなかったころの僕にとって、ここは「ザリガニの釣れる、ハスのきれいな公園」でした。それはそれで、正しい楽しみ方だったと思います。実際いまでも、ザリガニ釣りには行きます。
でも、知ってから行く荒神谷は、同じ場所なのに、違う場所です。

芝生でお弁当を食べている家族の、すぐ向こうの斜面に、358本の銅剣が2000年眠っていた。それを知っているだけで、風景の解像度が変わる。海竜の記事でも書いた、「知ると、見える」です。このシリーズで僕がやりたいのは、結局これなのだと思います。
まとめ|次は、39個の銅鐸

1983年、田んぼの畦の、一片の須恵器。1984年、銅剣358本。1985年、銅鐸6個と銅矛16本。そして、何も知らずにザリガニ釣りをしていた僕。
遺跡は、嘘をつかない。だから、神話の答え合わせができる。だから、面白い。
そして実は、この話には続きがあります。荒神谷の発見から12年後の1996年、ここから山をひとつ越えた加茂岩倉というところで、今度は銅鐸が39個、まとまって出てきました。1か所からの出土数としては、全国最多。しかも多くが、大きい銅鐸の中に小さい銅鐸を収めた「入れ子」の状態で、これまた丁寧に埋められていました。「またお前か、出雲」です。
ただ、正直に書いておくと——僕は加茂岩倉には、まだちゃんと行ったことがありません。近くは何度も通っているのに、です。だから次回は、行ってから書きます。それがこのシリーズのやり方です。
荒神谷史跡公園は、遺跡に興味がなくても、ほんとうにいい公園です。ハスの季節にぜひ。そして帰る前に、奥の「なんか建物」に、ちょっとだけ入ってみてください。帰り道、同じ芝生が違って見えるはずです。
今日の一曲
NHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の主題歌。誰も知らない場所で、誰にも知られないまま歴史を動かした人たちの歌です。
1983年、田んぼの畦で一片のかけらを拾った調査員のことを考えると、この曲しかありませんでした。星は空ではなく、地上にある——荒神谷の場合は、地上どころか、土の中に2000年埋まっていました。
それを見つけて、掘り出した人たちがいた。だから僕らは今日、壁一面の銅剣の前に立てるのです。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。












