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前回の記事で、ワインの浅野さんのことを書きました。

切れない包丁の話の脇役にしておくには、もったいない人です。
今日は、浅野さんのことをもう少しだけ。

僕がワインを好きになった夜の話でもあります。

山の上の店に、年に一度

僕が働いていた最初の店は、移転する前、山の上にありました。

浅野さんは年に一度、職場の人を連れて、労いの食事をしに来てくれました。

その夜も、静かな夜でした。浅野さんとスタッフの方がディナーを食べていて、テーブルには持ち込みのワインが3本ほど。

浅野さんは一本開けるたびに、「これはシェフに」と言って、グラスに注いだ一杯を厨房へ回してくれました。

僕はそれを、シェフに運びました。そのときは、別に何とも思っていませんでした。

山の上の店の静かな夜の挿絵
山の上の店の、静かな夜

残されたワイン

営業が終わって、浅野さんたちが帰ったあと。片付けをしていて、気がつきました。

ワインが、けっこう残してある。

「あれ?」と思ってシェフに確認したら、こう言われました。

「ひろしくん、持って帰っていいよ。浅野さんはいつも、けっこうワインを残していってくれるんだ。俺はもういただいたから、あとはひろしくんが持って帰って、勉強して」

そう言った直後に、

「あ、でもこれ美味しかったから、もう少しだけ頂戴!」

と一杯注ぎ足したのが、うちのシェフです。笑

カウンターに残されたワインボトルの挿絵
残されたワイン。

モレ・サン・ドニ

いただいて帰ったワインは、浅野さんが持ち込むくらいですから、どれも相当なものだったはずです。

その中で、ひとつだけ、はっきりと覚えているものがあります。

ブルゴーニュの赤、モレ・サン・ドニ。2005年の時点で、20年ものでした。

香りを嗅いで、一口含んだ瞬間——

ブワッと、フランスの葡萄畑に飛んだんです。

ブドウ。葉っぱ。樹。その土地の、土の香り。風。
そういうものを、一瞬で感じました。

しばらくして、「あれ、俺いまどこ行ってた?」と我に返りました。

ワイングラスから葡萄畑が広がる幻想的な挿絵
グラスの中から、葡萄畑へ。

マンガかよ、と言われそうなんですが、本当の話です。あんな体験は、後にも先にも、あのときだけです。

おかしいのは、僕は当時、フランスに行ったことがなかったことです。
葡萄畑がどんなものかも、葡萄の樹がどんな形かも、葉っぱがどんな形かも、知らなかった。

行ったことのない場所に、ワインが連れて行った。
だから余計に驚いて、20年経ったいまでも覚えているんだと思います。

そんなことを感じさせてくれるワインが、この世にはあるんだ——。
僕のワインの勉強は、その驚きから始まりました。

のちに——この体験からだいぶあとのことですが——お客さんに勧められて、『神の雫』という漫画を読みました。
ワインを一口飲むと、目の前に畑や風景がぶわっと広がる。あの有名な描写の漫画です。

忙しくて3巻か4巻で止まってしまったんですが、あのシーンだけは、よく覚えています。

「マンガの誇張やん」とは、思いませんでした。
「ああ、わかるわかる」と思ったんです。
先に、実体験のほうがあったから。

ついでに白状すると、神の雫を読んでから、5大シャトーを覚えようと思ったのも事実です。笑

与え方の、文化

いま振り返って、すごいなと思うのは、ワインの味だけではありません。

浅野さんは、「これ、若い子にあげて」とは言いませんでした。
ただ、いつも、けっこう残していく。それだけです。

シェフは「俺はもういただいたから、勉強して」と、当たり前のように僕に回しました。
(そして、もう少しだけ飲みました。笑)

誰も、恩に着せない。誰も、与えたことを言葉にしない。
でも若造の僕の手元には、20年もののブルゴーニュが残っている。

最初の店でシェフに言われた「何でも使っていい」と、浅野さんの残し方は、同じ文化だったのだと思います。
与えるときは、静かに与える。

僕もいつか、誰かの手元にそっとワインを残せる人になれているでしょうか。

浅野さんのお店は、いまも富山にあります。
ワインのことなら、あの人です。

今日の一曲

くるり「ワールズエンド・スーパーノヴァ」

ふわっと浮いて、どこか遠くへ運ばれていく——この曲の浮遊感は、あの夜の一口にいちばん近い音だと思います。

グラスの中から、行ったことのない葡萄畑へ。
音楽にもワインにも、人をどこかへ連れて行く力があります。

それに、この曲には個人的な借りがあります。
修行がいちばんしんどかった時期——友達と遊ぶ時間もなくなって、厨房と家を往復するだけだった頃を、支えてくれた曲なんです。

厨房で汗まみれだった若造に、一口のワインが教えてくれたことを、この曲は二行で歌っています。

ラフラフ&ダンスミュージック 僕らいつも笑って汗まみれ
どこまでもゆける

くるり「ワールズエンド・スーパーノヴァ」(作詞・作曲 岸田繁)より

本日もお読みいただき、ありがとうございました。