低温調理は、どこまで安全なのか|「63℃30分」の表と、プロが立っている場所
― この記事について ―
低温調理の話をするとき、いつか丁寧に書かなければと思っていたのが「安全」の話です。背骨に置くのは、1993年に国が示した「63℃30分と同等」の表。かなり厳しい表です。でも僕は、この表の中で美味しく作ってきました。
先に、結論だけ
- ご家庭の低温調理 ── 公的な表の中で(63℃30分など)。それでも、しっとり作れます
- 設定温度 ── 54℃未満で長時間の保持をしない(12〜52℃はウェルシュ菌の増殖帯)
- 煮込みの保存 ── 大鍋のまま放置しない。小分けして、急冷
- 考え方 ── 安全は「殺す」と「増やさせない」の二本立て。温度の数字だけ真似しない
こんばんは、ひろしです。
今日は、低温調理の「安全」の話をします。
ガストロバックの記事で、和牛のランプを54〜55℃で2時間、と書きました。あのとき「安全の話はいつか一本、丁寧に書きます」と予告しました。今日がその一本です。
先に、この記事の姿勢を書いておきます。僕は「この温度なら安全です」とは書きません。書けるのは、公的な基準がどこにあって、僕がどこに立っていて、何を引き受けているか。そして、ご家庭には安全側をおすすめするということです。
背骨になる、一枚の表
まず、これを見てください。
| 中心温度 | 保持時間 |
|---|---|
| 60℃ | 129分 |
| 61℃ | 80分 |
| 62℃ | 49分 |
| 63℃ | 30分 |
| 64℃ | 19分 |
| 65℃ | 12分 |
| 66℃ | 7分 |
| 67℃ | 5分 |
| 68℃ | 3分 |
| 69℃ | 2分 |
| 70℃ | 1分 |
| 71℃ | 38秒 |
| 72℃ | 23秒 |
| 73℃ | 14秒 |
| 74℃ | 9秒 |
| 75℃ | 5秒 |
「63℃30分と同等」の加熱温度と時間(1993年・厚生省事務連絡より)。60℃未満は、この表にありません
日本で豚肉などに求められる加熱の基準に、「中心部を63℃で30分、またはこれと同等以上」という言い方があります。では「同等」とは何度で何分なのか。それを国が示したのが、この表です(1993年・厚生省の事務連絡)。
63℃なら30分。70℃なら1分。75℃なら、たった5秒。温度が上がるほど、必要な時間は急激に短くなります。保健所などでよく聞く「75℃で1分」という目安も、同じ考え方——温度が高いほど、時間は短くて済む——から来ています。
この「温度×時間」の考え方を、パスチャライズ(低温殺菌)といいます。低温調理の安全は、瞬間の温度ではなく、中心がその温度に達してから、どれだけ保つかで考えます。
正確に書くと、この表はもともとハムやソーセージなど「食肉製品」の製造基準のための表で、飲食店の調理そのものを縛る表ではありません。ただ、日本で「安全側の目安」を言うとき、いちばん引用されてきた一次資料です。この記事でも、その意味で背骨に置きます。
そして、この「63℃30分」は古い数字ではありません。2015年、豚肉の生食提供が法律で禁止されたとき、「中心部63℃で30分以上、または同等以上の加熱」が現行の基準として、あらためて明記されました。1993年の表は、その「同等」を測るための物差しとして、いまも現役です。
「え、それまで豚を生で出せたの?」と思った方へ。出せたんです。2012年に牛のレバ刺しが禁止されたあと、代わりに豚レバ刺しを出す店が現れました。豚にはE型肝炎ウイルスや寄生虫のリスクがあるため、2015年に豚の生食提供そのものが禁止されます。その抜け道を塞いだときに、63℃30分が基準として明記されました。
僕は、この表の中で鶏胸を作ってきた

63℃30分。表のいちばん下でも、鶏胸はしっとり仕上がります
「厳しい表だな」と思われたかもしれません。実際、かなり厳しい表です。
でも、先に言っておきたいことがあります。僕の鶏胸肉の低温ローストは、この表のいちばん下——63℃30分——でやってきました。
63℃30分で、鶏胸はパサつきません。しっとり仕上がります。厳しい基準の中でも、美味しく作れる。これは僕自身が、何度も作ってきた実感です。だからこの記事は「基準は厳しすぎるから無視していい」という話にも、「基準の外は全部危険」という話にもなりません。
正直に書くと、僕の中にも「表の外」がある
いっぽうで、和牛のランプは54〜55℃で2時間です。
表を見てください。60℃未満は、そもそも載っていません。この表の作られた枠組みでは「別途照会」の世界です。つまり僕の和牛の火入れは、日本の公的な同等表には載っていない温度帯で行われています。
これを隠して安全の記事は書けません。僕の中に、表の中の火入れと、表の外の火入れが、両方あります。
世の中の火入れの多くは、表の外にある
そして、これは僕だけの話ではありません。
レアのステーキ。ロゼに仕上げた鴨。55℃のサーロイン。プロの現場の火入れの多くは、あの表の外側で行われています。(前に書いたとおり、あの表は飲食店の調理を縛るものではないので、これは「違反」の話ではありません。飲食店には別の衛生管理の枠組みがあります)
では、プロは何を根拠にそこへ立っているのか。
僕の理解では、火入れの温度だけで安全を作っているわけではないんです。信頼できる仕入れ。切り置きしない。冷蔵管理を切らさない。表面をしっかり焼く。仕込んでから提供までの時間を短くする。工程全体でリスクを小さくしたうえで、残るリスクを、プロとして引き受けている。
これは「だから真似していい」という話ではなく、「温度の数字だけコピーしても、プロの安全はコピーできない」という話です。
*
ここまでは「殺す」話。もうひとつ、「増やさない」話があります
63℃30分の表は、菌を殺すための表です。でも低温調理の安全には、もうひとつの顔があります。低い温度帯に長くいること、そのもののリスクです。
主役は、ウェルシュ菌。カレーの食中毒の犯人として知られる菌ですが、実は低温調理と深い関係があります。そして——本職の料理人でも、この菌のことをきちんと理解している人は多くないと思います。だからここは、丁寧に書きます。
どこにいて、どうやって鍋に入るのか

住処は、土と腸。カレーの具材は入り口だらけ。そして、五感には映りません
ウェルシュ菌の住処は、土と、動物の腸です。だから、肉(牛・豚・鶏)と、土に近い野菜に、あの固いカプセル(芽胞)の形で付いています。カレーの具材を思い浮かべてください——肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。入り口だらけです。
つまりこの菌は、「避ける」ことができません。入っている前提で扱う菌です。
そしてもうひとつ、いちばん怖い性質を先に言っておきます。増えても、匂いも見た目も味も、ほとんど変わりません。ねばつきや酸っぱい臭いは別の腐敗菌の警報で、ウェルシュ菌はその警報を鳴らさずに、静かに増えます。「昨日のカレー、匂いは大丈夫だから平気」——これが通用しない理由です。
余談ですが、熟成魚などで警戒するボツリヌス菌(E型)は、このウェルシュ菌の親戚です(同じクロストリジウム属)。住所が違うだけ——ウェルシュは土と腸(陸の菌)、ボツリヌスE型は海底の泥と魚(海の菌)。一族の手口はどちらも「酸素のない場所で、芽胞で生き延びて、あとから増える」。熟成魚の話は、また別の記事で書きます。
ウェルシュ菌には、二つの姿がある

左は加熱で死ぬ。右は煮沸1時間でも死なない。そして熱が、目覚ましになる
この菌には、姿が二つあります。
栄養細胞——増えるときの姿。これは、ふつうの加熱で死にます。
芽胞——固いカプセルにこもった姿。これは、煮沸しても死にません。100℃で1時間煮ても生き残ります。芽胞まで殺せるのは、市販のレトルト食品のような加圧加熱(120℃・4分)だけ。厨房や家庭の火力では、殺せないと思ってください。
しかも意地の悪いことに、加熱は芽胞にとって「起きろ」の合図になります。熱のショックで、発芽のスイッチが入るんです。
52℃まで、増えられる

この一本を覚えて帰ってください。52℃の天井と、そのすぐ上に立つ低温調理
ウェルシュ菌が増殖できるのは、おおよそ12〜52℃。多くの菌が止まる温度帯で、まだ増えます。いちばん元気なのは43〜47℃で、条件が揃うと10分ほどで倍になる。食中毒菌の中でも最速クラスです。
ここで、前の章とつながります。僕の和牛の54〜55℃は、実はこの菌の増殖上限(約52℃)の、すぐ上に立っています。低温調理の設定温度が54℃前後に集まっているのは、柔らかさだけの理由ではありません。あの数字の下には、ウェルシュ菌の天井があるんです。
「通過」と「滞在」
アメリカの基準に「肉の中心温度が危険な温度帯にいる時間は、合計6時間以内に」という考え方があります。この6時間の意味を、正確に。
「通過」はいい。「滞在」がだめ。
冷蔵庫から出した肉を55℃の湯に入れれば、中心は増殖帯(12〜52℃)を1〜2時間で通り抜けます。これは通過。避けられないし、6時間の枠に余裕で収まります。
危ないのは、設定温度そのものが帯の中にある場合です。たとえば50℃前後で何時間も保持するレシピ。これは通過ではなく滞在で、最適温度帯のすぐそばに食材を置き続けることになります。10分で倍になる菌にとって、2〜3時間は十分すぎる時間です。
分厚い塊にも注意が要ります。中心が52℃を超えるまでの時間が長いほど、「通過」に時間を食う。昇温の時間も、勘定に入れる。6時間ルールが見張っているのは、まさにここです。
カレーの鍋で、起きていること

この円環が、カレー食中毒の正体です
この菌の手口がいちばんよく見えるのが、カレーの大鍋です。
煮込む——栄養細胞は死にます。でも芽胞は生き残って、熱で目を覚ましている。
そして鍋は、ゆっくり冷めていきます。大鍋のカレーは、放っておいてもなかなか冷めません。氷水に当てて混ぜても、なかなか冷めない。52℃を切ってから12℃に落ちるまでの長い時間、目を覚ました芽胞が発芽して、増え続けます。カレーのとろみが酸素を遮るので、酸素の嫌いなこの菌には、鍋底は天国です。
放っておいた大鍋は、ウェルシュ菌を育てているのに近い。
「温め直せば大丈夫でしょう」と思うかもしれません。理屈の上では、栄養細胞は再加熱で死にます。でも、大鍋全体をムラなく熱々にするのは、現実には難しい。底は焦げる。混ぜれば跳ねる。端は温まりきらない。殺しきれずに残った分が、また冷める間に増える。このサイクルが、カレー食中毒の正体です。
結論:「殺す」で勝負しない。「増やさせない」で勝負する

勝負は加熱ではなく、冷却。小分けと氷水が答えです
芽胞は殺せない。再加熱は殺しきれない。だから、勝負する場所を変えます。
増える時間を、与えない。
低温調理なら——設定は54℃以上(ご家庭は表の中=60℃以上を)。分厚すぎる塊は避けるか、昇温の時間を意識する。
煮込み料理なら——小分けにして、急冷。袋や浅い容器に分けてしまえば、大鍋では不可能だった急冷が、簡単にできます。真空袋の記事に書いたホットパックは、まさにこのための方法です。
あわせて読みたい
真空パック機が、壊れたと思ったら|袋の選び方と、ホットパックの注意
熱いまま袋に詰めて、袋ごと氷水で急冷する方法を書きました。ウェルシュ菌に増える時間を与えない、いちばん現実的なやり方です。
ひとつだけ救いを書いておくと、ウェルシュ菌の毒素は食品の中ではなく腸の中で作られるタイプです。つまり「菌を大量に食べてしまう」ことを防げば防げる。だからこそ、増やさないことがすべてなんです。
*
素材によって、線の引き方が違う

同じ「低温」でも、素材で線の引き方が違います
もうひとつ大事なのが、素材ごとの違いです。同じ「低温」でも、線の引き方が違います。
牛の塊肉:問題になる菌は主に表面に付くと考えられているので、表面をしっかり焼けば、中がレアでも成立する——ステーキの理屈はこれです。ただし、これは塊のまま・表面を焼く場合の話です。
挽肉・成形肉:表面が中に練り込まれています。中心までしっかり加熱。ハンバーグのレアは、理屈が成立しません。
豚・ジビエ:寄生虫や病原体のリスクがあるので、中心まで。豚には先ほどの63℃30分の考え方が生きています。
鶏:カンピロバクターは鶏に高い割合で付いています。「新鮮だから安全」は、成立しません。新鮮さと菌の有無は、別の話です。鶏こそ、温度と時間で考える素材です。
海外の基準にも触れておくと、アメリカの公的な表には牛肉で54.4℃112分という数字があります。ただしこれは「中心が到達してからの保持」+湿度などの条件がセットの数字で、日本の表とは想定している菌も枠組みも違います。数字だけを切り取って比べないでください。
ご家庭には、表の中をおすすめします
ここまで読んで、「で、家ではどうすれば」と思われた方へ。
ご家庭では、表の中——安全側をおすすめします。理由は単純で、家庭では仕入れも管理も提供までの時間も、プロの現場のようには揃えられないからです。そして僕の鶏胸がそうであるように、表の中でも、美味しく作れるからです。
僕の鶏胸のやり方の骨子はこうです。低温調理器で湯を用意して、中心が63℃に達してから30分を保つ。ここで大事なのは、「湯が63℃」と「中心が63℃」は違うということ。中心が追いつくまでの時間を見込む必要があります。だから芯温計が要る——温度計の記事で書いたとおりです。
まとめ ― 立っている場所を、知っておく
低温調理の安全について、僕が言えることを並べてきました。
基準の表は、厳しい。でもその中で美味しく作れる。プロの現場の多くは表の外にいるが、それは温度以外の工程で安全を組み立てたうえでの話。殺す話だけでなく、増やさせない話がある——昇温と、冷却。素材によって線の引き方は違う。そして家庭には、安全側。
いちばん危ないのは、自分がどこに立っているかを知らないまま、数字だけ真似することだと思っています。
この記事が、その「立っている場所」を確かめる地図になれば嬉しいです。
⚠️ この記事は僕の理解と実践の記録で、安全を保証するものではありません。体調に不安のある方、小さなお子さん、妊娠中の方、ご高齢の方に出す料理は、とくに安全側でお願いします。
今日の1曲
ポラリス「光と影」です。
真空袋の記事で「真空」を選んだので、ポラリスは二曲目になります。
ひろがる空気のうしろに暮らした
それぞれの想い 僕たちの轍 泣いたりしない
光と影のおりなす世界にこだまする「あぁ いいでしょ」
36度7分の微熱なら いいでしょねぇいいでしょう
光と影のおりなす世界にこだまする「あぁいいでしょ」
あぁ戻れない記憶の裏側をみつけた
みつけた
36度7分の微熱ならいいでしょねぇいいでしょう
光と影のおりなす世界にこだまする「愛でしょ」ポラリス「光と影」より
気づきましたか。歌詞に、温度が出てくるんです。36度7分の微熱なら、いいでしょ。朝から晩まで温度の話をしてきた今日の記事に、これ以上ない偶然でした。
低温調理は、この十数年でいちばん料理を変えた技術のひとつだと思います。しっとりした鶏胸も、54℃の和牛も、あの技術の光の側です。
でも光には、影が付いています。酸素のない袋の中。ゆっくり冷める大鍋の底。便利さと同じ場所に、リスクが立っている。
影があるから使わない、ではなくて。影の形を知っているから、光の側を安心して歩ける。この記事で書きたかったのは、結局そういうことでした。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、おやすみなさい。
