― この記事について ―

石川と富山の4店舗で、ナポリピッツァの生地をそろえる。それが料理長だった僕の仕事でした。職人の勘を、測って、式にして、チャートにする——12年前のExcelがそのまま残っていたので、当時の記録と一緒にお話しします。

こんばんは、ひろしです。

今日は、ピッツァの生地の話をします。というより、「職人の勘」を数字に翻訳した話です。

先日、昔のiPadから発掘したファイルの中に、一枚のExcelを見つけました。名前は「ピッツァ生地管理表」。2013年の秋に僕が作ったものです。開いてみたら、当時の毎日の記録から、試行錯誤のメモ、たどり着いた式まで、全部残っていました。

今日はこのExcelを、12年ぶりに開きながら書きます。

四店舗の生地を、そろえるのが仕事だった

北陸で修業していたころの話です。勤めていたのはピソリーノという、真のナポリピッツァ協会の認定店でした。石川と富山に4店舗。多い日は、一日300枚以上焼きました。

ピソリーノのマルゲリータ。後ろに銅のオイル差し

当時のピソリーノのマルゲリータ

僕は途中から料理長になり、月に一度、長岡の「ラ・スカーラ」というお店へ自分の修行に通いながら、全店舗のメニューとレシピを考え、指導して、各店の料理がちゃんとしたものになっているかを見て回る役割でした。

それから、不定期で、休みの日には福井県の「バードランド」というお店に通わせてもらっていました。ピッツァの仕込みから何から、勉強させてもらいに行っていたんです。バードランドの小田原さんに直接教えてもらったことが、いまでも僕のピッツァの基準になっています。

バードランドで撮ったマルゲリータ。白い皿の上

バードランドのマルゲリータ。2012年に撮った一枚です

教わりに通う人間でありながら、四店舗に教える人間でもある。そういう立場でした。

そこで、いちばんの難題が生地でした。

生地を仕込むのも、焼くのも、店ごとに別のスタッフです。全員がピッツァ専門の職人というわけではありません。それでも、どの店で食べても同じピッツァでなければいけない。

生地は、毎日違うものになっていた

ピッツァの生地は、パン屋さんのような発酵設備なしの常温発酵で管理していました。発酵の速さはリエビト——イタリア語で酵母のことで、当時はビール酵母系の生イーストを使っていました——の量を季節で増減して調整します。そしてその調整は、各店のスタッフの感覚に任されていました。

夏と冬で、厨房の温度はまるで違います。同じレシピ、同じ手順でも、生地は毎日違うものになる。感覚で合わせられる人もいれば、合わせられない人もいる。これでは、そろいません。

玉取りを終えたピッツァ生地が板の上に並んでいる

玉取りを終えた生地。ここまでの温度管理で、この先の発酵が決まります

パン屋で教わった「こね上げ温度」

こね上げ生地に温度計が26℃を指す図。こね終わった瞬間の温度をそろえる

季節も時間も変わる。でも、この一点だけはそろえる

手がかりは、パンの勉強の中にありました。

パンの世界には「こね上げ温度」という考え方があります。こね終わった瞬間の生地の温度を測る。同じレシピでも、この温度が違えば発酵の進み方が変わる。だから、まずここをそろえる。

なぜ、そこなのか。発酵の速さは、温度で決まるからです。こね上げ温度は、発酵のスタート地点です。スタートが揃えば、発酵の進み方が揃う。進み方が揃えば、工程の時間割が揃う。時間割が揃えば、仕上がりが揃う。仕込みを安定させることが、そのまま仕上がりを安定させることになる——そういう順番です。

ピッツァ生地も、パンです。理想のこね上げ温度を26℃と決めて、毎回ここに着地させることを目標にしました。

まず、毎日測ることにした

やったことは、単純です。毎日、測って、記録する。

仕込みのたびに、気温・湿度・水温・粉温・リエビトの量・そして捏ね上がり温度。Excelの表に、毎日書き込んでいきました。2013年10月のことです。

始めたころの11月の記録を見ると、捏ね上がり温度はこうです。

26.3℃、27.0℃、28.7℃、28.5℃、26.1℃、26.1℃、28.2℃……日によっては23.5℃や29.0℃も。
目標は26℃なのに、ばらつきは5℃以上ありました。

この月の欄外に、当時の僕はこう書いています。

※こね上げ温度を26℃近辺に合わせるようにする。
※発酵には最低でも9時間かけるようにリエビトを調整。
※気温が下がることで、水道の水温も下がりこね上げ温度が下がったため、水を前日に計量し、室温に戻して使用。
※これ以上気温が下がった場合は粉、水をピザがまの暖かいところに置き、温度を上げてみる。
※夏場は逆に水を冷蔵。間に合わなくなったら粉も冷蔵。更に冷凍。その先が必要であれば水に氷をいれ温度を下げて対応。
——「ピッツァ生地管理表」考察シート・2013年11月

窯のそばに置いて温める、冷蔵する、冷凍する、氷を入れる。まだ「その場しのぎ」の段階です。でも、測っているから、何が効いて何が効かないかは見え始めていました。

気温は、管理できない

年が明けた2014年1月13日。考察シートに、転機になった整理が書いてあります。

仮)気温——管理不能
  粉温——チャンバで一定温度に
  水温を管理してこね上げ温度を一定に保つという方法←チャート作成
——考察シート・2014年1月13日

チャンバというのは、温度を一定に保てる保管庫のことです。粉をそこに入れれば粉温は固定できる——という案ですが、現実には粉は常温保管なので、粉温も日によって動きます。

気温は、変えられない。粉温も、動く。自分の手で自由に決められるのは、水の温度だけ。

なら、気温と粉温を「変えられないもの」として受け入れて、水温ですべてを吸収する。方針が、ここで決まりました。

(水温+粉温+気温)÷3

気温と粉温には鍵がかかり、水温だけに鍵が持てる図。(水温+粉温+気温)÷3=17.5

気温と粉温には鍵がかかっている。鍵を持てるのは、水温だけ

翌日の1月14日には、データから式にたどり着いています。

(水温+粉温+気温)/3=理想値
気温と粉温を入力すると水温が出るようにした。
今の時点での理想値は17.5とする(15k基準)
——考察シート・2014年1月14日

三つの温度の平均が、ある値になれば、捏ね上がりは26℃に着地する。15kg仕込みなら、その値は17.5。

式ができれば、あとは逆算です。朝、気温と粉温を測れば、今日の水温が決まる。

なお、当時のメモには「ミキサーの形状、回転数によって理想値は変動すると思われる」「季節によっても変動する可能性あり」とも書いてあります。この式の数字は、あの店の、あのミキサーの値です。どこでも17.5、という話ではありません。

そして、これはこの記事を書くために調べていて知ったのですが——製パンの世界には、昔から世界共通の公式がありました。

仕込み水温 = 目標こね上げ温度×3 − 気温 − 粉温 − 摩擦係数
 
(DDT=Desired Dough Temperature の公式。摩擦係数は、ミキサーの摩擦熱で生地温度が上がる分)

移項すると、(水温+粉温+気温)÷3=定数。僕がデータから辿り着いた式と、同じ形です。

しかも公式には「摩擦係数」という項があります。ミキサーが生地をこねる摩擦熱の分。僕の「17.5」という数字には、これが折り込まれていたことになります。当時のメモに「ミキサーの形状、回転数によって理想値は変動すると思われる」と書いたのは、知らないまま、摩擦係数の存在に気づいていたということでした。

5ヶ月の実測は、製パンの教科書と同じ場所に着地していました。ちょっと、嬉しかったです。

そして、チャートになった

気温と粉温の交点から仕込み水温を引く水温チャート。2013-2014年のExcelを当時の数値のまま清書したもの

当時のチャートを、数値そのままに清書しました。朝、二つの温度を測って、交点を見るだけです

式を、現場で使える形にしたのが水温チャートです。縦に気温、横に粉温。朝、二つの温度を測って、表の交わるところを見る。そこに書いてある温度の水で仕込む。それだけです。

たとえば気温20℃・粉温15℃の朝なら、水温は17.5℃。気温15℃・粉温12℃の寒い朝なら、28.5℃のぬるい水。計算はもう、誰もしなくていい。表を引くだけ。

0℃と100℃を、混ぜる

0℃の氷水と100℃の湯を混ぜて狙った水温を作る図。したい温度×100ccのお湯

0℃と100℃は、季節に関係なく手に入ります

ここで、次の問題が出ます。「水温28.5℃の水」って、どうやって作るのか。

水道の水温は季節で動くので、基準になりません。そこで、動かない温度を二つ使うことにしました。0℃と100℃です。

・氷水を用意する(氷多めに)。よく撹拌して水温をしっかりと下げておく(0〜1℃)
・お湯を沸かす(しっかりと沸騰させ、100℃にする)
・水温20℃にしたい時はお湯を2000cc+水を8000cc
・25℃にしたい時はお湯2500cc+水7500cc
……したい温度×100ccのお湯を使って、残りは氷水で合計10Lにする
※ザルなどを使用し、氷は入れないようにする
——「水温コントロール法」シートより

氷水はほぼ0℃、沸かした湯はほぼ100℃。この二つは、夏でも冬でも、どの店でも同じです。だから「したい温度×100cc」という誰でも覚えられる作り方が成立する。前の晩に氷水を仕込んでおけば、朝は混ぜるだけです。

数字は、揃った

2013年11月はばらばらだった捏ね上がり温度が、2014年2月には26℃の線上に揃った温度計の図

上が2013年11月、下がチャート導入後の2014年2月。実測値そのままです

チャートが動き出したあと、2014年2月の記録はこうなっています。

26.2℃、26.7℃、26.7℃、26.4℃、26.4℃……
——2014年2月の捏ね上がり温度の記録

11月に5℃以上あったばらつきが、26℃台に収まりました。真冬に、です。

そして2014年5月11日の考察シートには、一行だけこう書いてあります。

野々市店に水温チャートを使用するように指示した。
——考察シート・2014年5月11日

チャートが、僕の手を離れて、他の店へ旅立った日です。

面白いのは、そのすぐ横のメモに「野々市は水がやはり二口より多い。水質の問題か?」「ミキサーの回転数は87がいい感じ」と書いてあることです。同じチャートでも、店ごとに微調整が要る。仕組みは共通、数字は現場ごと。どこまでいっても、正解はひとつではありませんでした。

ガエターノが、来た

あの時期の、忘れられない出来事をひとつ。ナポリピッツァのレジェンド、ガエターノさんが店に来た日のことです。

前日の夜、ガエターノさんと、真のナポリピッツァ協会の渡辺さんと、和食のお店で食事をしました。そして翌日、店でピッツァの状態を見てもらったんです。

「良いね」と言ってもらえました。

それだけでも十分だったのに、ガエターノさんは実際に生地を伸ばして、トッピングして、焼き上げるところまで見せてくれました。そして、僕があまりに熱心に生地のことを聞くものだから——ミキサーで生地を仕込むところから、計量、成型まで、一緒にやりながら教えてくれたんです。

めちゃくちゃ勉強になりました。この記事に書いてきた温度の話は、こういう日々の上に乗っています。

ナポリピッツァのレジェンド、ガエターノさんが石窯と客席を仕切るガラスにサインを書いている

石窯と客席を仕切るガラスに、サインを書くガエターノさん

ピソリーノの赤い石窯とAVPN認定書。ガエターノさん来店の日

赤いモザイクの石窯と、真のナポリピッツァ協会の認定書

その夜の、プッタネスカ

その夜、ガエターノさんと渡辺さんは、うちの店で食事をしていくことになりました。めちゃくちゃ緊張しながら調理したのを、よく覚えています。

僕はプッタネスカを作りました。挑戦のつもりでした。すると社長が飛んできて、

「大丈夫か?! 渡辺さん、ナポリ料理にはめちゃくちゃ厳しいぞ!?」

しばらくして、接客をしていた店長がお皿を下げてきました。嬉しそうに——「プッタネスカ、とても良かったよ!と言ってもらえた」と。

ただ、ひとつだけ。「ケッパーは、酢漬けでなく塩漬けのほうがいいね」

食事はとてもいい雰囲気で終わって、心底ホッとしたのを覚えています。そしてあの日もらった「塩漬けのほうがいい」は、いまでも僕の中に残っています。アンチョビとケッパーの記事で塩漬けケッパーの話を書いたとき、根っこにあったのはこの夜です。

職人を、いらなくする話ではない

誤解のないように書いておきたいのですが、これは職人の勘を否定する話ではありません。

ベテランの職人は、たぶんこの全部を、無意識にやっています。朝の空気で水温を変え、生地に触って発酵を読む。すごいことです。

僕は、本物の職人の手を間近で見たことがあります(さっきのガエターノさんの日です)。あの勘のすごさを知っているからこそ、勘を否定するのではなく、翻訳するという道を選んだんだと思います。

でも、その勘は、人に渡せません。育つまでに何年もかかります。4店舗の、ピッツァ職人ではないスタッフたちには、待っている時間がない。

だから、勘がやっていることを、数字に翻訳した。測る、表を引く、混ぜる。これなら今日から誰でもできる。職人の勘をなくすのではなく、勘の中身を、みんなが使える道具にする。あのとき僕がやったのは、それだけです。

地元小麦100%で作ったら、「おばあちゃんのピッツァ」になった

後半は、粉の話です。

のちに島根へ来てから、地元の小麦だけでピッツァを作れないか、と試作したことがあります。使ったのはえーひだカンパニーさんの安来産小麦。結果は——やわらかくて、膨らみが弱い。「田舎のおばあちゃんが焼いたピッツァ」でした。

それはそれで、悪くないんです。素朴で、あたたかい。でも、僕が作りたいナポリピッツァではなかった。

成分表を見ると、理由がありました。タンパク質は10.5%ほどの準強力粉。パンには十分な数字です。でも、僕の基準の粉には届いていない。ピッツァの骨格を作るグルテンのもとが、少し足りなかったんです。

「地元産100%」より、作りたい一枚

地元小麦とマニトバを天秤で基準の食感に釣り合わせる図。弱さは強い粉で補う

目指すのは「地元産100%」の看板ではなく、基準の食感でした

僕の基準は、カプートのロッソ100%で作ったときの食感でした。

そこで、カプートのマニトバ(タンパク質の多い強い粉)と地元小麦をブレンドして、最終的なタンパク質量がロッソと同じになる配合を計算しました。強い粉で、地元小麦の弱さを補う。これで、かなり近づきました。

「地元産100%」という言葉は、使えなくなります。でも僕は、言葉より、作りたいピッツァの品質を優先しました。そのうえで、地元の小麦をいちばん活かせる配合を探した。コトレッタの記事で「地産地消」と書かなかったのと、同じ判断です。

数字で言うと、輸入元の成分表ではサッコ・ロッソ(クオーコ)はタンパク質13.5%マニトバ・オーロは14%前後。安来の小麦は10.5%ほど。この3%の差を、ブレンドの比率で埋める計算です。

この考え方は、その後もずっと一緒でした。ワイナリーのレストランでは、冬季限定で薪ストーブでピッツァを焼いていました。

レストランの冬季限定、薪ストーブの火

レストランの冬の薪ストーブ。この火でもピッツァを焼きました

そして、いまも続くワイナリーの庭カフェのピッツァにも受け継がれています。焼いているのはピッツァ職人ではないスタッフですが、生地は安定している。チャートを作った12年前と、やっていることは同じです。

庭カフェのマルゲリータ

庭カフェのマルゲリータ

まとめ ― 勘を、数字にする

毎日測る→式にする→表にする→人に渡す、の4ステップの図。勘を渡せる形にする

毎日測る。式にする。表にする。人に渡す

「職人の勘」は、すごいものです。でも、勘は人に渡せません。

数字にすれば、渡せます。毎日測る。式を見つける。表にする。誰がやっても、生地がそろう。

12年前のExcelを開いて、いちばん胸に来たのは、チャートそのものではなく、毎日の記録の列でした。一日300枚以上焼きながら、それでも毎朝、気温と粉温と水温を書き込んでいる。勘を数字にする作業は、地味な記録の積み重ねでしかありませんでした。

いつかイベント出店でピッツァを焼きたい、という夢があります。窯を選ぶときの見方——最高温度ではなく、連続で焼いたときに床の温度がどう保たれるか——の話は、そのときにまた。

今日の1曲

中島みゆき「ヘッドライト・テールライト」です。

「プロジェクトX」のエンディングテーマだった曲です。無名の人たちの、誰にも知られなかった仕事を映す番組の、最後に流れていた歌。

語り継ぐ人もなく
吹きすさぶ風の中へ
紛れ散らばる星の名は忘れられても
ヘッドライト・テールライトはまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト旅はまだ終わらない
 
行く先を照らすのはまだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのはあどけない夢
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

中島みゆき「ヘッドライト・テールライト」(作詞・作曲 中島みゆき)より

毎朝、気温と粉温を測って表に書き込む。誰も見ていない仕事です。チャートを使う人は、チャートを作った人のことを知りません。それでいいんだと思います。

ピソリーノは、僕が抜けてしばらくして、閉店してしまいました。でも、あの5ヶ月の記録はExcelの中に残っていて、考え方は庭カフェの生地の中に生きています。

教わりながら、教える。それは、いまも変わりません。いまでも教わりに行くことがあるし、子どもから学ぶことも、一度の食事から学ぶことも多い。一生続くと思っています。終わりはないし、完成もない——料理も、僕も。

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変わらない美味しさは、変わり続けることで生まれる

「料理に完成はない」という話は、こちらに書きました。この記事の続きのような一本です。

旅は、まだ終わっていません。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、おやすみなさい。