― この記事について ―

「肉は常温に戻しましょう」。料理本でよく見る一文です。でも僕は、冷蔵庫から出してすぐ火を入れることも多い。どちらが正しいかではなく、そのあと何をするかで答えが変わる、という話です。

こんばんは、ひろしです。

今日は、下ごしらえの話をします。

「食材は常温に戻してから調理しましょう」。料理本にも、レシピサイトにも、よく出てくる一文です。

僕も昔は、そういうものだと思っていました。でもいまの僕は、冷蔵庫から出してすぐ火を入れることがけっこうあります。

常温に戻すのが間違いだ、という話ではありません。「戻すか、戻さないか」の二択ではなく、「そのあとに何をするか」で答えが変わる——今日はその話です。

そもそも、常温に「戻って」いますか

室温に20分置いたステーキの断面図。表面は少し温まるが中心は1℃しか上がらない。戻ったのは気持ちだけでした

室温に20分。表面は少し温まりますが、中心は1℃しか上がっていません

僕も長いこと、厚い肉は常温に戻してから焼いていました。冷蔵庫から出したての肉は、表面と中心の温度差が大きい。あらかじめ縮めておけば火が均一に入る——理にかなっていると思っていました。

ところが、調べてみると、実際に測った人がいました。海外の料理研究家が、冷蔵庫から出したステーキを室温に置いて、中心温度を測り続けたんです。

結果は、20分置いても、中心は1℃ほどしか上がらない。2時間置いても、3℃弱。

しかも、置いた肉と冷蔵庫直の肉を焼き比べたら、焼き上がりまでの時間も、火の通りの均一さも、ほとんど同じだったそうです。

肉というのは、思っている以上に温まりにくいものでした。「30分常温に置いたから大丈夫」——戻ったのは気持ちだけで、肉の中心は、ほぼ冷蔵庫のままだったんです。

この実験をした人は、こう締めています。「常温に戻す時間があるなら、表面の水分を拭くことに使ったほうがいい」。表面が乾いているほうが、焼き色は早く、きれいに付きます。これは現場の感覚とも合います。

なお、これは食品衛生の面でも悪くない話です。肉を室温に長く置くのは、菌が増えやすい温度帯に置くということ。効果がほぼ無いうえにリスクだけあるなら、置かない理由が揃っています。

低温調理なら、むしろ冷蔵庫から直接

中心がどうせ冷たいままなら、話は早い。「冷蔵庫から出した状態」を、最初からスタート地点にしてしまえばいい。低温調理は、まさにその考え方で組み立てます。

僕がいまケータリングでやっている和牛の仕込みは、こうです。余分な水分を抜いて、味を入れて、真空にして冷蔵。現場で低温調理にかけて、中心を狙った温度まで持っていき、提供直前に表面だけ強く焼く。

和牛ランプを54℃で2時間火入れし、最後にフライパンで表面だけ焼く工程の図

スタートは冷蔵庫から。低温で中心を仕上げて、最後に表面だけ焼きます

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この和牛の仕込みの全体は、こちらに詳しく書きました。水分を抜いて、味を入れて、低温で火を入れるまでの流れです。

この工程では、「冷蔵庫から出した状態」をスタート地点として固定したほうがいい。

低温調理は、設定した温度と時間で仕上がりを決める調理です。スタートの肉の温度がそろっていれば、同じ設定で同じ仕上がりになる。スタートがばらつけば、結果もばらつきます。

そもそも「常温」って、何度ですか

夏の厨房32℃・冬の厨房12℃・冷蔵庫4℃の三本の温度計。常温は季節で動くが冷蔵庫は動かない

「常温」は季節で動きます。冷蔵庫は、一年中ほぼ同じです

ここが、今日いちばん言いたいところかもしれません。

「常温」という言葉は、曖昧です。

夏の厨房の常温と、冬の厨房の常温は、まるで違います。「常温に30分」と書いてあっても、8月と2月では、肉の状態は別物です。

いっぽう、冷蔵庫の中は、一年中ほぼ同じ温度です。だから「冷蔵庫から出してすぐ」を基準にすれば、季節が変わっても条件がそろう。

仕込む量が多いほど、人が多いほど、この「条件をそろえる」が効いてきます。

温泉卵は、冷蔵庫から直で固定する

分かりやすい例が、温泉卵です。

スチームコンベクションオーブンの蒸気で、大量に作っていたときの設定です。当時のレシピメモが残っていました。2016年4月の書き込みです。

温度卵
・卵 室温に戻す
・68℃ 25min
 
冷蔵庫から出してすぐのときは28分

最初は「室温に戻して、68℃で25分」と書いています。その下に、あとから一行足してある。「冷蔵庫から出してすぐのときは28分」。

つまり——「常温に戻す」と「冷蔵庫から直」の差は、たった3分の時間差に置き換えられたんです。

だったら、季節で動く「室温」を待つより、一年中ほぼ同じ温度の冷蔵庫直+28分で固定したほうが安定します。大量に仕込むときは、僕はこちらでやっていました。夏でも冬でも、同じ設定で同じ温泉卵ができます。

このメモの一行の追記は、いま見ると、僕の運用が「室温に戻す」から「冷蔵庫直」へ移っていった記録そのものです。

白いカップに温泉卵とサラダを仕立てた一皿。イベントで提供した温玉サラダ

イベントで仕立てた、温泉卵のサラダ。この設定で作った卵です

ポーチドエッグは、酢をやめました

ザルで水様卵白を落とし、80℃の湯で火を入れ、きれいなポーチドエッグに仕上げる3ステップの図

散る部分を先に取り除く。酢は使いません

卵つながりで、もうひとつ。ポーチドエッグの話です。

修業時代に教わったのは、湯に酢を入れる方法でした。酢を入れると、白身が広がりにくくなると教わりました。あとで知ったのですが、これは酢で湯が酸性に寄ると白身がより低い温度で固まり始めるから。早く固まるぶん、広がる前にまとまる、という理屈です。

でも、やっているうちに気になってきました。酢の酸味が、卵に付くんです。それに、酢を入れても、散るときは散る。散るかどうかは、むしろ卵の状態で決まっているように見えました。

卵の白身には、二種類あります。黄身のまわりのぷるんとした濃厚卵白と、まわりに広がるさらさらの水様卵白。湯の中で散っていくのは、主にこの水様卵白です。

だから僕は、酢をやめて、こうしました。

卵をザルや穴じゃくしに割って、水様卵白を落とす。残った濃厚卵白と黄身だけを、80℃の湯へそっと入れる。

散る部分を、先に取り除いてしまう。これだけで、酢なしで、きれいな楕円形にまとまります。

イタリア語でポーチドエッグは Uova in camicia(ウォヴァ・イン・カミーチャ)——「シャツを着た卵」といいます。白身のシャツを、きれいに着せてあげる方法です。

このやり方も、当時の手書きのレシピ帳に残っていました。

UOVA in Camicia
新鮮な卵を使うこと。
15〜20cmの水を 80℃まであたためる。
塩を入れ 下に皿などをひく(鍋肌に卵がくっつくのを防ぐ)
卵を割り、穴じゃくし等で水様卵白をとりのぞく
ボウルから ナベに 静かに卵を入れる。
加熱 80℃ 5min.
とり出して キッチンペーパーに あげる。

80℃で、5分。そして、メモの一行目に「新鮮な卵を使うこと」とあります。

白状すると、この一行はあとから書き足したものです。この方法で仕込みを始めてから、気づいたんです。卵によって、水様卵白の量がぜんぜん違う。新鮮な卵ほど、ザルで落ちる部分が少なくて、きれいにまとまる。それで一行目に足しました。

濃厚卵白が鮮度とともに水様卵白に変わっていく——その理屈を知ったのは、この記事を書くために調べた最近のことです。でも当時の僕は、理屈を知らないまま、観察だけでそこに辿り着いて、メモに足していた。温泉卵の「28分」の追記と、まったく同じです。レシピ帳の書き足しには、現場の学びが残っています。

バターは、戻す意味が大きい

バターの三態。固い塊・やわらかい粘土・液体。生地に混ざるのは真ん中の粘土だけ

固い塊、やわらかい粘土、液体。生地に混ざるのは、真ん中だけです

「常温に戻す」がしっかり効く食材もあります。バターです。

バターは、温度でまるで別の物質になります。冷蔵庫では、固い塊。常温に戻すと、やわらかい粘土。火を入れると、液体。この三段変化が、バターの持ち味です。

そして生地作りで使うのは、真ん中の「粘土」の状態です。指で押すとすっと入るくらいのやわらかさ。この状態のバターだけが、生地に均一に混ざり、砂糖とすり混ぜて空気を抱き込めます。

冷蔵庫から出したての固いバターのまま生地に入れると、混ざりません。固い塊がごろごろ残るだけです。かといって溶かしてしまうと、今度は液体なので、空気を抱き込む力がなくなる。戻しすぎてもダメ、戻さなくてもダメ。「常温に戻す」が、状態を指定する言葉としてきちんと機能しているんです。

フォアグラも、戻します

バターと同じ理由で戻すものを、もうひとつ。フォアグラです。

テリーヌにするときは、最初に血管の掃除をします。フォアグラの中を走っている血管を、竹串や指で辿って抜いていく仕事です。

これが、冷たいままだとできません。冷えたフォアグラはバターのように固くて、無理に触ると割れて、血管が途中で切れてしまう。常温に戻して、指で押すとすっと入るくらいのやわらかさにしてから掃除する。そうすると血管が切れずにするっと抜けます。

バターの「粘土」と同じです。作業ができる状態に持っていくために戻す。火入れのためではなく、手のための「常温に戻す」もあるんです。

肉の「戻す」と、バターやフォアグラの「戻す」は、同じ言葉でも理由が違う。こちらは、戻すこと自体が工程の一部なんです。

パンは、温度をもっと厳密に見る

そして、温度にいちばん厳密なのが、パンの世界でした。

僕は縁があってパン屋で働いた時期があり、有名なパン職人の講習会にも参加しました。そこで知ったのが「こね上げ温度」という考え方です。こね終わった瞬間の生地の温度を測って、そろえる。同じレシピでも、生地の温度が違えば発酵の進み方が変わるからです。

この考え方は、のちに僕がナポリピッツァの仕込みを安定させるときの土台になりました。その話は長くなるので、次の記事で丁寧に書きます。

まとめ ― 「なぜ戻すのか」を考える

ステーキは戻らない、卵は冷蔵庫直で固定、バターは戻すこと自体が工程。戻す理由は食材ごとに違う

肉は戻らない。卵は冷蔵庫直。バターは戻す。理由は食材ごとに違います

「食材は常温に戻すべきか」。

僕の答えは、「そのあとの工程によって変わる」です。

肉は、置いても中心はほぼ戻っていない。低温調理なら、冷蔵庫から直のほうが条件がそろう。温泉卵も冷蔵庫直で固定。いっぽうバターとフォアグラは、戻すこと自体が工程。

共通しているのは、「なぜ戻すのか」に、それぞれ理由があるということです。

理由を知らずに「戻すのが正しい」とだけ覚えると、効果のないところで時間を使って、かえって条件をばらつかせてしまう。工程には、必ず理由があります。理由から考えれば、戻す意味のあるもの(バター)と、戻さなくていいもの(肉・卵)が、自分で判断できるようになります。

火加減の記事で書いた「完成形から逆算する」と、同じ話です。

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弱火が正義でも、強火が正義でもない|火加減は、完成形から逆算する

「肉汁を閉じ込める」も「アクの旨味」も、この記事で調べました。図解14枚です。

今日の1曲

THE BLUE HEARTS「情熱の薔薇」です。

公式のミュージックビデオがYouTubeにあります。1990年、6枚目のシングルです。

「肉は常温に戻す」。教わったとおりに、20年やってきました。調べてみたら、中心はほぼ戻っていなかった。

火加減の記事では「焼いて肉汁を閉じ込める」が茹でる話だったと知りました。アクは大部分が脂でした。そして今回は、常温。見てきたものや聞いたこと、いままで覚えた全部が、少しずつひっくり返っていきます。

いつまで経っても変わらない
そんな物あるだろうか
見てきた物や聞いた事
いままで覚えた全部でたらめだったら面白い
そんな気持ちわかるでしょう
答えはきっと奥の方
心のずっと奥の方
涙はそこからやってくる心のずっと奥の方

THE BLUE HEARTS「情熱の薔薇」(作詞・作曲 甲本ヒロト)より

それが、悔しくないんです。むしろ面白い。

そして、ひっくり返らなかったものもありました。レシピ帳に自分で書き足した一行です。「冷蔵庫から出してすぐのときは28分」。「新鮮な卵を使うこと」。理屈を知らないまま、観察だけで書いた行は、あとから調べても正しかった。

答えはきっと、奥の方。毎日の仕込みの、いちばん奥の方にあります。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、おやすみなさい。