― この記事について ―

月に一度、新潟のリストランテに通って、7〜8品を同時進行で教わる。レシピは、もらえない。目で見て、味を覚えて、二週間後にシェフ本人に再現して出す——僕の「料理を見る目」が作られた場所の話です。

こんばんは、ひろしです。

今日は、修行の話をします。ピッツァの記事で少しだけ触れた、月に一度の「ラ・スカーラ」の話です。

月に一度の、ジェットコースター

7〜8品が同時に進むラ・スカーラの厨房のイラスト

北陸でピソリーノに勤めていたころ、会社にはひとつ、特別な繋がりがありました。新潟・長岡のリストランテ「ラ・スカーラ」。ナポリピッツァの縁で紹介された店で、シェフの五十嵐さんは、イタリアで長年修行して、最終的にはあのエル・ブジでも勉強してきた人です。

月に一度、僕を含めた3人で、そこへ通わせてもらっていました。時間は、ランチとディナーの間の数時間だけ。その短い時間に、シェフは7〜8品を同時進行で作っていきます。

これが、すごい。何かを火にかけたと思ったら、別の仕込みが始まり、さっきの鍋に戻り、また別の皿が組み上がっていく。いま何を作り始めたのか、どれがどの料理の途中なのか——必死にメモを取るんですが、メモのほうが、どれがどれだか分からなくなるんです。

例えるなら、ジェットコースターを何本も同時に走らせているのを、全部目で追いかけている感じ。あの数時間の密度は、いまでも忘れられません。

メモが取れないときは、五感で

しかも、見ているだけでは済みません。たまに、下処理を任されるんです。

手が塞がれば、メモは取れない。その間もシェフの料理は進んでいく。だからそういうときは、五感を総動員して、記憶するしかない。音、香り、鍋の中の色、シェフの手の動き。あとで思い出せるように、体に刻みつけながら手を動かしていました。

レシピは、もらえなかった

そして、この修行のいちばんの特徴。レシピは、もらえません。

そもそも、教えてもらえるようになるまでが大変だったそうです。最初は断られていたと聞いています。初期のころは分量も手順もきちんと教わっていたそうですが、シェフも忙しい。だんだん、材料も分量も「その場でやりながら」になっていきました。

いま思えば、シェフ自身が作りながら考えていたんだと思います。意地悪でもなんでもなくて、料理が生きていて、その日の食材と対話しながら組み立てている。だから紙に固定できるものが、そもそも少なかった。

教わる側の僕らは、目で見て、味を覚えて、家に帰ってから自分で分量を組み立て直すしかありません。レシピをもらえなかったから、料理の「構造」を見るしかなかったんです。

例外は、ドルチェだった

ひとつだけ、例外がありました。ドルチェです。

毎回一品、ドルチェを教わるのですが、教えてくれるのは店のドルチェを全て任されている担当の方で、この方は毎回きちんとレシピを用意して、手順もしっかり教えてくれました

いま思うと、これも理にかなっています。お菓子は配合の世界で、グラムのズレがそのまま失敗になる。感覚で組み立てる料理と、数字で組み立てるドルチェ。同じ厨房の中に、ふたつの教わり方が同居していました。

二週間後の、審判の日

教わって終わり、ではありません。約二週間後、再現した料理を、シェフ本人に食べてもらうんです。

この日の緊張感は、ものすごかった。当日再現する人間は、みんな寝不足。厨房はピリピリしていました。

寝不足には、理由があります。前日も当日も、店は普通に営業しているんです。再現の仕込みは、その合間を縫ってやるしかない。前日のディナーが終わった後にも仕込みは山ほど残っていて、朝までかかることもしばしばでした。そして当日ももちろん営業で、再現の場はランチタイムが終わってからディナーまでの間。だから当日は、3人とも目が血走っています(笑)。

終わると、めいめいに言い合うんです。「どうだった?」「なんて言われた?」。アラビアータを「完璧だよ!」と言われた仲間なんて、普段はクールなのに、喜びを隠しきれずに顔が紅潮していました(笑)。

終わったあとは、みんなぐったり。疲労と、達成感と、反省が入り混じる——そんな一日でした。

僕がよくダメ出しされたのは、パスタとソースのバランスです。どうしてもソースを多めに作ってしまう癖があって、そこは何度も注意されました。ダメ出しされるものの方が、圧倒的に多かった。

でも、一度だけ、忘れられない日があります。ボンゴレロッソを出したときです。シェフが二口ほど食べた時点で、言ってくれました。

「これは、100点だよ」

嬉しかったから、めちゃくちゃ覚えています。アクアパッツァも褒めてもらえました。何十回のダメ出しの中の、数回の100点。あの配分だったからこそ、忘れられないんだと思います。

その2品のメモが、実は残っています。

黒本のVongole Rosso(ボンゴレロッソ)の手書きメモ
黒本より、「Vongole Rosso」のページ。「あおらない(殻が割れるから)」の書き込みも
黒本のAcqua Pazza(アクアパッツァ)の手書きメモ
黒本より、「Acqua Pazza」のページ。右上はプルガトリオ(ナポリ弁)の語源メモ

「重たいなあ」——シェフの基準の、源流

ソースの量のほかに、僕がよく言われた言葉があります。「重たいなあ」。そして、たまにもらえる「これは軽くていいね!」

この「軽さ」という基準には、源流がありました。俳優で、ワイン通として知られる辰巳琢郎さんです。辰巳さんは五十嵐シェフのお客さんで、重たい料理はだめ、バターは使わずオリーブオイルで——という、はっきりしたこだわりの持ち主でした。

聞いた話ですが、辰巳さんが初めてラ・スカーラに来たとき、シェフはずいぶん厳しいダメ出しをされたそうです。シェフは悔しくて、「もう一度だけチャンスをください!」とお願いして、次の機会に挽回した——。

僕らに何十回とダメ出しをしていたあのシェフも、ダメ出しから立ち上がってきた人だったんです。

白本と、黒本

白本の走り書きページ(分量・図・シミ)
白本より。分量、矢印、図、シミ。この密度のページが百数十枚続きます

そのときのメモが、実は残っています。スパイラルノートが2冊——僕は「白本」「黒本」と呼んでいました。

開くと、字は走り書きで、矢印だらけで、シミだらけです。どれがどの料理のメモか、たどるのに苦労するページもある。でもこのぐちゃぐちゃさこそが、あのジェットコースターの記録なんです。きれいなノートを取る余裕なんて、どこにもなかった。たぶんこの走り書きを読めるのは、世界で僕だけだと思います(笑)。

ちなみに、なぜ2冊あるのか。役割分担では、ありません。1冊目が足りなくなって、買い足しただけです。あのサイズ感と丈夫さが気に入っていて、色を変えたのは、あとから見分けやすいように。それだけの理由です。

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DVDの山と、社長のひとこと

深夜にDVDを見ながらメモを取る場面のイラスト

この修行には、続きがあります。

ラ・スカーラでの学びは、毎回社長がビデオに撮っていて、社員にはDVDが配られていました。ただし社外秘なので、会社を辞めるときは、みんな返して辞める決まりです。

やがてラ・スカーラの勉強会は、新店舗の立ち上げで忙しくなって休止になり、そのまま無くなってしまいました。そして数年後、僕にワイナリーのレストランから誘いが来ます。

退職の面談の日。僕はそのことも全部社長に伝えたうえで、山のようにあったDVDを返そうとしました。社長はその山を少し見て、言ったんです。

「お前、それ持って行け。これから必要になるだろ?」

泣きました。みんな返して辞めるものなのに。社外秘のはずなのに。「いらなかったらもらうけど?」なんて言われて、ありがたく頂きました。

それからは、ワイナリーの仕事が終わった後、毎晩遅くまでこのDVDを見ました。僕が通うようになる前の回の映像まであった。まるであの頃と同じように、映像の中のシェフを必死に追いかけてメモを取り、レシピと手順をまとめて、少しずつノートに移していきました。それがいまも僕の手元にある、la scalaのレシピ帳です。

宝物です。

いまも、分解してしまう

この修行が僕に残したのは、レシピの束ではなくて、癖でした。

レストランで食べていて「ん?」と思うと、見た目、香り、味、知識を総動員して、頭の中で分解と組み立てが始まってしまう。それでも分からないことは、質問してしまう。

面白いことに、そこまでこだわっている店のシェフは、たいてい喜んで答えてくれるんです。ある意味「伝わった」ということだから。鹿児島から京都に移ったCAINOYAの塩澤シェフなんて、何でも答えてくれたうえに「お前この後は?予定なければ飲みに行くぞ!」となりました(笑)。うちのガストロバックでやっていることは、ある意味あの日の味の再現でもあります。もちろん、僕の考えを合わせたうえで。

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まとめ ― レシピをもらえなかったから

レシピをもらえなかったことを、当時は大変だとしか思っていませんでした。

でも、いまなら分かります。レシピをもらえなかったから、料理を「構造」で見る目ができた。目で見て、味で覚えて、自分で組み立て直す——この筋肉は、レシピを何百枚もらっても付かなかったと思います。

まかないの記事で「食材から考える筋肉」の話を書きましたが、ラ・スカーラでついたのは「料理から逆算する筋肉」です。ふたつ合わせて、いまの僕の土台になっています。

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後日談 ― 電話の話を、ふたつ

ひとつめは、ワイナリー時代の話です。

ある日、店に辰巳琢郎さんが来店されました。お客さんとシェフの関係だし、覚えていないかもな、と思いながら、僕は伝えました。「新潟の長岡のラ・スカーラで、たくさん学びました」。

すると辰巳さん、ポケットから携帯を取り出して、その場で電話をかけ始めたんです。相手は——五十嵐シェフ。個人の携帯番号を知っている仲だったんです。そして僕も携帯を渡されて、久しぶりにシェフと話しました。シェフは笑いながら、こう言いました。

「辰巳さんにはバターは絶対に使うな。料理は極力軽くね!」

あの日の厨房が、一本の電話で戻ってきたようでした。

ふたつめは、いまの話です。ラ・スカーラは、もう閉店してしまいました。

でも、五十嵐シェフは、いまでも時々電話をくれるんです。「こないだ築地で食べた牡蠣が美味しかったから、送るよ!」とか、「今度東京で出す店のシェフを頼まれてる」とか。年に一回、あるかないかですが。

あるとき社長と電話で話す機会があって、その話をしたら、社長は「もうずっと連絡とってないわー」と。一緒に教わっていた仲間で、シェフに一番気に入られていた(と僕は思っていた)人にも、連絡は来ていないそうです。

なぜか、僕には来る。不思議です。

今日の1曲

今日の一曲は、ASIAN KUNG-FU GENERATIONで「遥か彼方」。

アジカンを初めて見たのは、フジロックのROOKIE A GO-GOでした。入場口の外にある、誰でも見られるステージで、真夜中に。それが、次に見たときには同じフジロックのグリーンステージ——いちばん大きなメインステージで、この曲を歌っていたんです。ものすごいスピードで、駆け上がっていった。

僕はあんなふうには駆け上がれていません。でも、料理の世界に入ってからは、自分なりに前を向いて進んできたつもりです。始めたばかりの頃の料理も、ワイナリーシェフ就任初期のコース料理も、いま振り返ると「もう出さないな」と思う。それはきっと、地道にでも、進んできたということなんだと思います。

公式のミュージックビデオです。

踏み込むぜアクセル
駆け引きは無いさ、そうだよ
夜をぬける
ねじ込むさ最後に
差し引きゼロさ、そうだよ
日々を削る
 
心をそっと開いて
ギュっと引き寄せたら
届くよきっと 伝うよもっと
さあ
 
生き急いで搾り取って
縺れる足だけど前よりずっと
そう、遠くへ
奪い取って掴んだって
君じゃないなら
意味は無いのさ
だから もっともっともっと 遥か彼方

ASIAN KUNG-FU GENERATION「遥か彼方」(作詞・作曲 後藤正文)より

本日もお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、おやすみなさい。